今回は、昭和大学薬学部教授の現役中に、志半ばで多くの先生に惜しまれながら亡くなられた鳥居塚先生をご紹介します。
先生は、千葉大学在学中に千葉大学医学部から数キロ離れた場所にある西千葉のキャンパスにあった薬学部の薬学生に少しでも漢方医学に触れてもらえる時間を持ってもらおうと、薬学部内の部活動として東洋医学研究会を創設されました。もちろん、医学部の東洋医学研究会と呼応しながらも、独自の活動をされました(現在は、薬学部が亥鼻キャンパスに再び戻ったため、一緒に活動しています)。学生時代からそのように、独立心が強かった(結果的にそうなった?)鳥居塚先生のご活躍を振り返りたいと思います。インタビューの中では、50周年を迎えて発展解消することになった北里大学東洋医学総合研究所でのご活躍、そして同僚や後輩の皆様に慕われ、尊敬を集めていらっしゃいましたことが、大変印象的でありました。このことは、私どもも千葉大学の後輩として誇りに感じるとともに、本文章は多くの方々からの思い出で出来上がっていることがわかると思います。そして、漢方医学を後世に残すために、例えば、薬学教育モデルコアカリキュラムが導入されるとき、先行して作られていた医学部の教育モデルコアカリキュラムも細かい内容となったのは、鳥居塚先生ら担当者の熱意だということを思い出しました。そのように漢方医学の発展のために多くの時間を割いていただいた鳥居塚先生のご苦労と中途でのご逝去がどんなにか無念であったことは想像に難くないと思います。ご冥福をお祈りするとともに、同時代を生きたものとして、先生への感謝をお伝えできればと思います。
2023年3月21日
千葉大学医学部附属病院和漢診療科 診療教授 並木隆雄
1954年(昭和29年)1月12日、港区神谷町に、父・誠(きよし)、母・なをの一人息子として生誕。両親と祖母・きんとの4人家族であった。父は運送会社役員で、実家はホテルオークラの近隣にあった。隣家の幼馴染によると、勉強ができても鼻にかけることもなく、穏やかな子であったという。
私立西久保幼稚園、港区立鞆絵小学校を経て、1966年に北芝中学校入学。中学では剣道部と写真部を兼部。生徒会長も務めた。ここで後に伴侶となる小島芳枝と出会う。一学年90人の小さな学校で、学校全体が仲間のような和気藹々とした雰囲気だったという。芳枝によると、成績は良かったが、祖母の影響か、よく民謡を歌いながら教室移動する変わった子という印象であった。生徒会長として鳥居塚が読む卒業式の答辞を、習字が得意だった芳枝が代筆したことから、卒業後に付き合いが始まった(1979年結婚)。
1969年、東京都立九段高等学校入学。文武両道の進学校で、山岳部に入り、自由な校風を楽しんだ。
母なをが体調を崩し、漢方治療を受けていたことも影響してか、1973年、千葉大学薬学部に入学する。5月、東洋医学研究会入部。当時のハウプトは土佐寛順で、部員であった三潴忠道と看護学科のメンバーとほぼ3人しかおらず、部員集めのため訪れた薬学部のガイダンスで、苦肉の策と半ば自暴自棄になった土佐がおかしな踊りを披露し、新入生に猛アピール。これに圧倒された鳥居塚は、細金典子(現三潴忠道夫人)を含む仲間5名で入部を決めた。細金とはクラスも使用していた実験台も一緒、後に夫となる三潴忠道が富山で共に働いていたこともあり、鳥居塚が亡くなるまで親交が続くこととなる。
細金によると、他部員に比べて、鳥居塚は「入部当初から漢方を学びたいという目的がはっきりしていた」という。当時の鳥居塚は、『漢方の臨床』誌を定期購読し、『和漢薬』(ウチダ和漢薬)や『漢方研究』(小太郎漢方)を本社に連絡して分けてもらい、神田の古書店街で『和譯本草綱目』を揃えるなど、熱心に勉強をしていた。
東医研の活動は、月曜日の部会、木曜日の自由講座、「鍼灸班」「生薬班」の4本立てであった。鳥居塚は藤平健、小倉重成の自由講座を受け、原田正敏の傷寒論セミナーに参加し、富浦の和田正系の自宅を訪問したり、木更津の小倉医院で勉強したりと貴重な時間を過ごした。中でも最も印象に残ったのは、小倉による『類聚方広義』解説で、テキストとして使用した漢文のコピー本にびっしりと書き込みをしたほどであった。
三潴がハウプト時代の1975年、活動に熱心であった薬学部のメンバーが実習や研究などで多忙となり、西千葉キャンパスから亥鼻キャンパスへの移動が難しくなった。そこで鳥居塚は、西千葉の薬学部に「本草班」を作り、当時薬品化学教室の教授であった原田を顧問に、独自の活動をするようになる。鳥居塚は代表を務めた。「生薬班」から「本草班」の名称変更には、鳥居塚の思い入れが強く反映されており、「分析的な生薬成分の化学や単離成分の薬理のみでなく、生薬のもつ薬能までも含めた漢方の臨床に用いる、という方向性をもつ生薬の勉強会にふさわしい」との考えであった。
この「本草班」の発足で、東医研としての活動の場が分断されるのではないかという危惧もあったものの、母体の医学部東医研と分離することなく連絡を取り合い、「医学部、薬学部、看護それぞれが一つに集まり、古典から臨床、基礎までの広いフィールドで東洋医学にアプローチできる」という良い伝統は守られることとなった。この流れを受け、三潴は、部の正式名称であった「千葉大学医学部東洋医学研究会」から「医学部」を抜き、「千葉大学東洋医学研究会」とすることを決めたという。
本草班は毎週土曜日の1時~を活動の時間とし、駆瘀血剤や駆水剤の調査研究などを行い、専用のテキスト(「本草偶筆」)を作成するなどした。また、鳥居塚自ら「媚薬について」などの講義を行った。
『東医研五十年史』に鳥居塚はこう寄せている。「東洋医学の研究には、臨床と基礎の両面からのアプローチが必要です。また医学部的見方も薬学部的な見方も必要です。(中略)今後も、両輪の輪のように不即不離の関係を保ちながら、個々人の将来の一つの礎となるような、研鑽にはげむことのできる場となっていくことを願ってやみません」
1979年、千葉大学大学院薬学研究科修了。学位記授与式が薬学部講堂で医学研究科と合同で行われた。ちょうど寺澤捷年も医学部大学院博士課程を修了しており、医学部を代表して学位記を受領していた。この時、鳥居塚より10年上の寺澤は、「鳥さん、良かったね」と声を掛けた。まさかその後富山で一緒に仕事をすることになるとは、寺澤も思いもよらなかったという。
ガリ版刷りの東医研テキスト
几帳面な文字。「法水」の署名が入っている
昭和49年夏合宿の栞。鳥居塚の手書き
栞。地図や細やかなイラスト入り
1979年、千葉大学大学院薬学研究科修了後、エスエス製薬株式会社中央研究所に就職する。この年に結婚。その後、2男1女に恵まれた(洋輔、祥蔵、知世)。新居は千葉の大和田新田の公団であった。この時鳥居塚は、一部屋を書斎にすることを希望し、「漢方の新聞を作り毎月定期的に発行したい。とにかく漢方に関するものを形にして出したい」と芳枝に話した。結局、多忙で叶わなかったものの、漢方への強い思いを感じたという。
研究職で働く中、寺澤、土佐、三潴の誘いで、富山医科薬科大学を見学することになった。鳥居塚から、やはり漢方研究への夢を諦めきれないという話を聞いた寺澤のはからいであった。1975年に発足した富山医科薬科大学は、建学理念を ①東西医学の融合統一 ②医学と薬学の有機的連携 とする全国にも類を見ない大学であった。大学病院は1979年10月に開院、和漢診療部に寺澤、土佐、翌年7月からは今田屋章が着任し、月間千人もの患者の治療に当たっていた。
鳥居塚が雪深い富山を訪れたのは1980年1月15日。薬剤部長の堀越勇を紹介され、それを契機に、富山医科薬科大学へ移ることとなる。堀越は、エキス剤より煎じ薬をと湯液治療を全面的に応援し、薬剤部スタッフもそれに全面的に協力するという漢方を学ぶに恵まれた体制であった。8月に芳枝を伴い再度見学した際に、医局の机に置いてあったラーメンがひどく伸びていた。「それを見て、現場の先生方の多忙を知り、力になりたいと強く思ったのでは」(芳枝)。同年9月、薬剤部に助手として就任する。当初は太閤山にあった職員宿舎に住んだ。
前年の病院開院時から薬剤部に勤務していた本間精一によると、当初煎じ薬は本間と鳥居塚の二人で作っていた。その後、一般調剤、漢方、監査の三つと入院患者対応を二ヵ月ずつローテーションで担当する体制に変えたため、薬剤部の全員が対応することができるようになったという。煎じ薬だけで処方箋が100枚という日も珍しくないほどの忙しさで、入院患者には朝晩二回、電熱器を10台も並べ、最高で一度に30~40人分の薬を作っていた。皆が熱気を感じるような濃密な日々の中にあって、鳥居塚は熱いものを内に秘めながらも、あくまで冷静な学者タイプであったという。実務をこなし、薬剤部の勤務終了後の夕方から深夜まで、医師たちと研究室で実験を続けるのが日課となった。最初に行ったのは桂枝茯苓丸の末梢循環改善の研究であった。
1986年、和漢診療部文部技官。研究室長となり基礎研究の推進力となった。当時のことをこう記している。「私の興味の中心は、何が(Products)どのようにどこに働いているのかという点にある」。「漢方医学の“個”を重視した診断と治療原則を解きほぐしていかない限り、本当の漢方医学・漢方薬の研究にはならないのではないか」(『東医研五十年史』)。翌1987年9月、「瘀血と駆瘀血剤に関する研究」で学位(薬学博士)を取得する(富山医科薬科大学)。
寺澤、土佐、今田屋、三潴、伊藤らとともに過ごす日々は、「学生時代のクラブ活動の延長かとも思えるよう」であったという。仕事が終わると焼き鳥屋で調達した焼き鳥と酒を持ち込み、当直室で飲み明かした。鳥居塚も研究の合間に顔を出したという。決して酒は強くないが、酒席は好きだった。本間によると、決して羽目は外さず、ぐでんぐでんに酔った姿は記憶にないという。
鳥居塚の翌年から富山に赴任した伊藤隆は「鳥居塚先生は和漢診療部の研究のターボエンジンのような存在でした」と振り返る。多彩なアイデアを繰り出し、煎じ薬の病棟での配薬に関するさまざまな工夫をしたという。桂枝茯苓丸の研究や瘀血の研究も、鳥居塚がいなければ進まなかった。寺澤が作った瘀血の診断基準となるスコアがある。患者を診察し、瘀血スコアのデータを取り、採血して鳥居塚に渡す。鳥居塚が患者の血液の粘調度を測り、それをプロットすると、瘀血の点数と血液粘調度でグラフができる。ただ、血液粘度の測定は難しい操作が必要で手間がかかった。それを鳥居塚は補正式を作ることで容易にしたという。この「発明」により何人もの博士論文を完成に導いた「博士メーカーだった」(寺澤)。研究に臨床にと力を尽くし、「まさに和漢診療部の縁の下の力持ちでした」と伊藤は語る。
また、寺澤は鳥居塚を「科学者でありアーティスト」と評する。和漢診療部の居室の設計を引き受け、一晩で実験台の置き方や水道の引きかた、コンセントの位置まですべてをデザインし、機能的な実験室をつくってみせた。その実験室で、後に何人もの医師が優れた研究を生み出したという。
富山では富山医科薬科大学の学生の指導や大学院生の指導なども行っていた。後に北里研究所で鳥居塚の直属となる溝脇万帆は、薬剤部の実習や漢方サークル「赭鞭会」の活動で、鳥居塚から八味地黄丸の作り方などを教わったという。
本間は、鳥居塚が富山で指導した学生に向けてこのような言葉を色紙などに記して贈っていたことを記憶している。「蝸牛の歩みの遅々たる如く、されど墨跡鮮やかなり」。後日、本間は矢数道明の『漢方後世要方解説』に「蝸牛の歩みの遅々たる如く」という記述を見つけ、これが出典ではないかと考えているという。
1989年1月、アメリカ・テキサス大学サンアントニオ校分子生物学教室健康科学センター(Univ.of Texas Health Science Center at San Antonio)に留学、萩野信義に師事する。当帰芍薬散の認知症に対する効果の研究に勤しんだ。「慣れない土地で家族を気遣って、あちこち連れて行ってくれました」(芳枝)。1990年10月に帰国。
富山医科薬科大学には約10年勤務した。鳥居塚は『和漢診療部二十周年記念誌』にこう記している。「草創期を一人のメンバーとして過ごせたことは、私にとっては貴重な財産であり、誇りでもあります」。
1982年。左から2人目。右隣は本間
1986年8月。後列左端。藤平健を囲んで
土佐、三潴、今田屋章、寺澤らと
1981年ごろ
1992年(平成4年)、北里研究所東洋医学総合研究所に移る。所長は大塚恭男。当時の研究所には基礎研究部(山田陽城部長)、医史文献研究部(小曽戸洋部長)、臨床研究部(丁宗鐵部長)の三つの研究部門があった。鳥居塚はこの臨床研究部で、診察にあたる医師による臨床データの解析や、漢方方剤の薬効を動物実験で検討するなどの研究に携わった。山田は、「鳥居塚先生は富山で薬剤部の業務をこなしながら研究も行っていたので、臨床現場で本当に必要なものは何かを非常によく理解されていた。北里に来られて心強く思った」と振り返る。当時の北里研究所は、折からの漢方ブームもあって全国から患者が押し寄せており、臨床データが膨大に蓄積されていた。この臨床データや先人たちの治療報告、古文献、基礎研究の成果などを参考として薬効を推定し、それを実験で確かめるということを日々行っていた。
当時、北里の臨床研修生であった鈴木朋子は、「鳥居塚先生が当時目指しておられたのが、臨床部門の基礎研究へのフィードバック。臨床をやっていて、この薬が効いたのはどういう作用機序が働いたのかという疑問を、基礎研究部に投げてほしいと言われた」と話す。さらに鳥居塚は、「基礎からも、この薬にはこういう作用があるということを臨床にあげるといった交流をしていかなければいけない」と日ごろから言っていたという。実際、山田も「臨床とのカンファランスをよくやっており、症例報告の中から研究のヒントをつかむなどしていた」と語る。緻密な性格と豊富な知識で次々に研究をこなし、さらに「人的なつながりも作ってもらった」(山田)。後に鈴木が移った東北大学の老年科グループとの共同研究となるアルツハイマー病に対する加味温胆湯の研究をはじめ、更年期障害に対する漢方薬の効果の研究などを精力的に行った。
基礎研究部と臨床研究部両方に所属していた矢部武士は、鳥居塚と研究室が一緒であった。当時矢部は、漢方についてよく知らないまま、科学的な視点で漢方薬の薬効を明らかにする研究をしていた。それを知った鳥居塚が、週一度『類聚方広義』のセミナーを開き、漢方の基礎や理論をかみくだいて教えてくれたという。現在矢部は大学で学生に漢方の指導をしているが、その素地を作ってくれたと話す。
所長の花輪寿彦、溝脇と(1999年ごろ)
鹿児島の日本神経精神薬理学会にて矢部と
(1997年)
同・長崎鼻。桜島を背景に
食事会 溝脇と(2000年)
同・植物園にて。チョウセンアサガオの下で
臨床研メンバーと(2000年)
2000年(平成12年)、昭和大学薬学部に移り、生薬学・植物薬品化学の助教授に就任する。薬学部の薬用植物園の園長も兼務した。旗の台キャンパスで教鞭を執る傍ら研究も続けており、アルツハイマー病に対する当帰芍薬散の研究や嗅覚障害に対する加味逍遥散、更年期不定愁訴に対する漢方薬の有用性についてなどの論文を発表している。
2006年より教授に就任する。同年、「生薬・漢方処方の中枢神経系に対する作用に関する研究」にて学内の上條奨学賞(研究業績)受賞。
鳥居塚から「学生も自分たちも笑顔を絶やさない理想の環境づくりにぜひ協力してほしい」と研究室のメンバーに呼ばれた高松智は、「教育とはこういうものだと先生から学んだ」と話す。鳥居塚は「学生はもちろん、授業するわれわれも楽しくなければ伝わるわけがない」と口癖のようによく言っていたという。だから、わくわくすることを自分で考えることが好きなんだ、と。とくに学生の実習に力を入れていた。一年生は富士吉田キャンパスで全寮制生活を送るため、実習も富士吉田まで出向いて行う。鳥居塚は自ら車を運転し、片道2時間かけて富士吉田を往復した。
植物の生命史の講義では、さつまいもを植え、収穫して焼き芋にし、学生がブレンドしたハーブティーと一緒に食べさせた。これはハーブのリラックス効果を測る実験を兼ねており、唾液アミラーゼ検査をし、ストレスの軽減を見たという。
薬学部の学生全員に生薬の標本を持ってもらうために、一年次には生薬標本セットを作らせた。100円ショップで購入したケースに刻み生薬を種類ごとに分けて入れる。写真と名前だけでなく、現物に見て触れて、生薬に対する知識を深めるためであった。
特殊な実習では、天然物を抽出し、化学変化によって別な化合物を作り出すという実験をした。例えば、コショウからピペリンという辛み成分を抽出して、これを化学変化させることにより、バニラの香り成分であるバニリンに変換する。するとコショウがバニラの香りになる。事前に学生にコショウを食べさせ、その成分を感じてもらう。実験後にはアイスクリームを食べさせる。化学の力でまったく違うものを生み出すことを、身をもって感じさせる授業は、学生たちに大きなインパクトを与えたという。
研究者でありながら、薬剤師としての業務経験も持つ鳥居塚の元には、彼を慕う学生が多く集まっていたという。どんなに忙しくても、遅くまで学生の面倒を見ていた。
新しいことを始めるバイタリティに溢れており、「進歩してこその伝統。新しいことを始めないと伝統はつながらない」が口癖だった、と高松は話す。「新しいものを取り入れ、新しいものを見いだして時代の要請に応えていくことが伝統医学」とし、学生が興味を持つよう実験に使う分子モデルを粘土で手作りするなどの工夫を凝らし続けた。鳥居塚こだわりの「生薬標本室」には、国内に数点しかないドイツ・メルク社製の標本も揃え、中国、韓国をはじめとする海外の生薬製品も含めた300点以上の生薬を展示した。
3方ガラス張りの標本室
右・ドイツ・メルク社製の標本
海外の生薬
施錠せず誰でも入れるようにした
鳥居塚手書きの看板
高松(前列左)ら研究室メンバーと(2013年)
2005年、日本東洋医学サミット会議(JLOM:The Japan Liaison of Oriental Medicine)が発足する。設立当初は、WHO西太平洋地域事務局(WPRO)を中心とした伝統医学領域の国際標準化プロジェクトに対する日本としての方向性を検討、決定するための任意団体であった。設立時は4学会(日本東洋医学会、日本生薬学会、和漢医薬学会、全日本鍼灸学会)と伝統医学に関する2つのWHO研究協力センター(北里大学東洋医学総合研究所、富山大学和漢医薬学総合研究所)の長をフルメンバーとした。(現在はさらに、日本歯科東洋医学会、日本伝統鍼灸学会、東洋療法学校協会、日本鍼灸師会、全日本鍼灸マッサージ師会、鍼灸学系大学協議会を加えた12団体となっている。)
2009年に中国がISO(国際標準化機構)に中医学(TCM)の国際標準化の委員会設立の提案を出す。中国が目指すのはTCMの標準化であり、漢方薬の原料、診断法や治療手技の標準化、鍼灸の経穴の規格や用語の標準化など、各国の医療制度まで踏み込むような内容であった。これが通れば、日本の漢方・鍼灸に大きく影響を与えることになる。国益を損ないかねない事態を受け、防衛策として、JLOMが国内審議団体として日本の方針を検討し対応することとなった。まずはJLOM参加メンバーに加え、他国・WHOの伝統医学に関する行政部局との窓口である外務省、経済産業省、厚生労働省の各所との意見調整が必要となる。JLOMの議長であった寺澤は、生薬や漢方医学に詳しく、語学力もあり、さらに人をまとめる力がある鳥居塚に声をかけ、この難しいとりまとめ役を依頼した。責任感が強い鳥居塚は、体調不良で職務を全うできなくなるまで、文字通り身を尽くして務め上げた。この国際ISO/TC249会議は中国・北京やオランダのハーグ、南アフリカのダーバンなどで行われ、鳥居塚はまさに飛んで歩いた。会議に同行した経験のある鈴木朋子は、激務によって、会期中に3キロ痩せてしまったという。「個性が強いメンバーの中で、鳥居塚先生は緩衝役になっていた。寝る間も惜しんで働いていたが、苦だと思っていなかったのではないか」と振り返る。それでも、帰国翌日に組まれた大学の1限目の講義は、絶対に休講にしなかった。
鳥居塚から事務局長を引き継ぎ2年務めた東郷俊宏は、「鳥居塚先生のように自信を持って正しいことは正しいと言葉にすることが大事なのだと学びました」と記している。
現在JLOM議長を務める伊藤隆は、鳥居塚が「国の仕事をやれるのは誇りだよ」と語ったことが強く印象に残っているという。「医系、薬系のみならず、鍼灸にも詳しく、よく勉強されており、自分の考えをお持ちだった。仕事を割り振る人がいなかったこともあり、すべて一人で抱え込んだ。さらに手を抜くことなくやり遂げることができたのは、鳥居塚先生だったからです」と伊藤は語る。高松にも、「ISOはとても大変な仕事だけれど、日本の代表として国際学会に参加し、国益のために働けるのは幸せだよ」と話したという。妻・芳枝にも、日ごろから「国のためになるような仕事をしたい」と話していた。本業が忙しいからとJLOMの活動を辞す人もおり、「どうして辞めちゃうのかな。こんな楽しい仕事はないのに」とこぼしていたという。
JLOMの国際会議にて
2013年に南アフリカで行われたISO/TC249の第4回総会で、翌年の開催地が日本・京都に決まり、鳥居塚が第5回総会の実行委員長に就任した。しかし、その年の暮れに体調を崩し、翌年2月に自宅近くの台東病院で検査を受けるが、そこで大腸癌が発覚、しかもすでにステージIVであった。大学の講義や研究が残っており、自分の勤める大学に行きたいという本人の強い希望で昭和大学病院に入院し、治療しながら研究室から仕事の指示を出した。学会の会合などに病をおして出席し、また病院に戻るといったように、最期まで労を惜しまなかった。
長年公私にわたり親しく付き合った三潴夫妻は、亡くなる少し前に上京し、鳥居塚を見舞った。まだ杖をついて歩くことができた鳥居塚は、病院のレストランで夫妻をもてなし、こだわりの研究室や生薬室を案内し、帰りは夫妻を駅まで見送った。三潴典子は「頑張ろうね」と改札口で手を握って励ましたが、あの温もりが今も忘れられないという。
芳枝には、引退したら執筆活動をしたいと話していたという。65歳過ぎたら本を出したい、そして地域貢献をしたいと。学生時代から漢方の研究に勤しみ、倒れるまでそれを貫いた。「一生を日本漢方のために捧げてもらった」と寺澤は語る。
2014年5月24日逝去。享年60歳。通夜・葬儀は上野寛永寺輪王殿にて執り行われた。戒名は「顕徳院釋和諦」。東京世田谷区、明大前駅からほど近い閑静な住宅街にある正法寺に眠る。
菩提寺・正法寺
鳥居塚家の墓
学生時代から鳥居塚を知る寺澤をして「鳥さんを悪く言う人を聞いたことがない」と言わしめるその人柄は、誰もが口を揃えて「とにかく面倒見が良い」。妻・芳枝は、「言われなくても、やってあげるよ、行ってあげるよと動いてくれる人だった」と話す。他者への思いやりが深く、歩いていても高齢者がいればすっとドアを開けてあげるなど、自然に体が動く人だった。
鈴木が山形から臨床研修生として北里研究所に来た時、環境に馴染めずにいると、鳥居塚が最初に声を掛けてくれたという。物おじせず、正規非正規分け隔てなく、誰に対しても同じ態度で優しく接していた。鳥居塚から、研修の空き時間に研究室に来ていいよと言われて、実験の手伝いをしていたという。鈴木が北里から東北大学に移った時、研究にのめりこみ研究室に泊まり込んでいると、その話を聞きつけた鳥居塚から、風邪を引かないようにとマイナス4度対応の寝袋が送られてきたという。
北里時代、共同研究をしていた溝脇によると、とにかく顔が広く、目配りが利き、学生の世話から他の職員の手伝いまで何でもこなすため、電話が鳴り止まなかった。なぜか多忙であっても、勧誘の電話にまで丁寧に応じ、周りを笑わせた。クリスマスには職員、事務方、他の研究室の職員、電話の交換手にまでチョコレートを配って歩いたという。昭和大学では、旗の台の薬草園に生えている柚子を毎年12月に収穫して、大学関係者、他の研究室や職員に袋詰めして配った。
矢部は、「目先の業績を求めるタイプの人ではなく、自分が面白いもの、興味を持つものを突き詰めて突き進む人だった」と振り返る。北里大学で学会の会場担当になった際に、全体のセッティングをしなければいけないにも関わらず、「印象が大事だ」とコーヒーコーナーに貼る紙を熱心に書いていた。「そばで見ていてもどかしい。もっと手を抜いてくださいという思いだった」(矢部)。三潴も、生薬学会で会った際に、実行委員長であったにもかかわらず、トランシーバーを持って走り回り指示を出しているのに驚いたという。研究室のトップに就いても、年末の大掃除など率先して動き、段ボールをまとめる時の梱包の技はプロ並みだった。ただでさえ忙しくても仕事を絶対に断らず、人に振らず、面倒なことはすべて自分で引き受けた。
学生や後進に対しても、常に優しく接し、どんなに多忙であっても時間を割いて的確なアドバイスを与えた。北里で同じ臨床研究部所属だった中田勉は、「若手に対してどう接しようかと迷った時に、心の中に小さな鳥居塚先生がいて、先生ならどうするかを考え指針にして動いている」と語る。高松は、鳥居塚が「これからは若い人たちがこの研究室を盛り上げていくのでよろしく」と言って、どんな相手でも関係の有無に関わらず紹介してくれたと話す。「私も、私を訪問した人を学生に紹介するようにして、いつか縁がつながるようにと考えています」(高松)。
妻・芳枝は「楽しいんだよ、ということをすごく人に教えたかった人」と振り返る。家庭でも、子供たちに「なんでも挑戦してごらん、楽しいよ」と声を掛けた。あれもこれも挑戦してみたい、楽しいことをたくさんの人に伝えたい。早逝を惜しむ声は止まないが、いくら時間があっても足りなかったに違いない。
矢部は北里時代、鳥居塚になぜ更年期障害に興味を持ったのかと尋ねると、「奥さんが大好きだから」と答えた。妻が年齢を重ね、更年期障害に悩まされる前に何とかしてあげたいのだと。半分本音で半分冗談といった雰囲気ではあったが、そういうことをサラリと言えるスマートさがあったという。また、自身が一人っ子だったため、3人の子供たちの誕生をとても喜んでいた。子供たちを連れて行くのは、テーマパークではなく博物館や美術館で、娘を連れて山へも登った。子供たちが幼い頃、仕事が忙しかった鳥居塚は、子供たちにノートを渡し、夜のうちに〇や△を描いて、そこから連想するものを描かせるなどの「宿題」を出した。その日によって異なる宿題を、子供たちは昼間やり、夜中また父が確認し次の課題を出すというやり取りをしていたという。
高松は、家族について鳥居塚から繰り返し言われたことがある。信念を持って研究の道を目指す中で、お互い生活が苦しい時期があり、それを乗り越えて人並みの生活ができるようになったという共通の経験があった。鳥居塚から「自分の生き方が実直であることはいいことだと思うが、家族のことを度外視してきたよね。だからこれからは、家族を大切にしなくちゃいけないよ」と何度も念を押されたという。
昭和のレトロ感ある物へのこだわりが強かった。生薬標本の棚は古道具屋を巡って探したり、オークションで競り落とすなどしていた。週末ごとに、芳枝を伴って、次の実験に必要な道具の買い出しに行っていたという。文房具も好きで、このノートにはこのボールペンなどと色や銘柄を合わせたり、好きな物は周りに勧めたり贈ったりしていた。
とりわけ読書が好きで、捕物帖や怪しい伝奇小説が好みであった。本でも漫画でも研究論文であっても、すぐに人に勧められるほど内容が頭の中に入っていた。蘊蓄好きで、そのジャンルの広さは圧倒的だったという。
鳥居塚には、子供のころから、宇宙への憧れがあった。無重力に興味があり、北海道・上砂川町の炭鉱の立て坑跡にあった地下無重力実験センター(JAMIC)に、長期にわたり定期的に通っていた。ここでは710mの縦穴から実験装置を入れたロケット型の真空カプセルを落下させ、10秒間の無重力状態を得ることができる。そのカプセルにマウスを入れ、脳脊髄液の中の成分を調べるという実験を行っていた。
また、飛行機で無重力状態を体験できると聞いて、名古屋へも行った。飛行機を急上昇させ、エンジンの出力を落とし急降下する時間に無重力体験ができるという。ここではマウスだけでなく鳥居塚自身も飛行機に乗ったが、気持ち悪さで実験どころではなかったという。これらの目的は漢方であり、無重力状態に対する漢方薬の効果を見るためであった。将来人類が宇宙で生活するようになり、無重力状態で起こる体調の変化を漢方薬が改善できるかもしれないという夢を語っていた。それを叶えるために、実際には応募はしなかったものの、宇宙飛行士募集の書類を揃えたこともあったという。
JAMIC
JAMICにて中田とともに実験中
台東区根岸に住んだ縁もあり、地域の青年部に入り、夜回りしたり地域の集まりに顔を出したりするうちに、祭りに参加するようになった。始めのうちは法被を町内会で借りていたが、そのうち地元で有名な染物屋に依頼して家族分の法被をあつらえ、神輿を担いだ。三社祭、元三島神社や鳥越神社など順次行われる祭りに家族で参加した。研究室のメンバーや学生を連れて朝顔市やほおずき市に行ったり、酉の市で熊手を買うのも毎年の恒例行事であった。
地元の祭りにて(1997年)
祭りの衣装も自前だった(1997年)
学生時代から、イラストが得意で、「法水」のペンネームを入れていた。医局の見取り図など、さらりと正確に描いた。最後の執筆となった連載は体調の悪化により第一回で絶筆となってしまったが、自ら挿絵を描いている。
東医研テキストのイラスト
富山・和漢診療室医局見取り図
最後に描いた挿絵を入れた手ぬぐい。
鳥居塚が好きだった色を使って作ったもの
幼稚園時代(左)。幼なじみと(1959年)
小学生時代 夏(右)
小学校入学(1960年)
10歳。当時から祭り好き?(1964年)
1963年(左)
高校時代、尾瀬にて。左(1971年)
同じころ
左から寺澤、本間、土佐、鳥居塚(時期不明)
家族と(2013年)
日本東洋医学会副会長 和漢医薬学会理事 日本生薬学会財務幹事
テキサス大学兼任教授
鳥居塚芳枝(妻)洋輔(長男)
伊藤隆(日本東洋医学会会長)
鈴木朋子(埼玉医科大学医学部教授)
土佐寛順(土佐クリニック)
三潴忠道(福島県立医科大学会津医療センター教授)
三潴典子(旧姓細金 三潴忠道夫人)
寺澤捷年(千葉中央メディカルセンター)
山田陽城(北里大学名誉教授)
本間精一(温故堂漢方あけぼの薬局)
高松智(帝京平成大学薬学部教授)
矢部武士(摂南大学薬学部教授)
萩原裕子(聖マリアンナ医科大学医学部助教)
中田勉(信州大学基盤研究支援センター准教授)
溝脇万帆(薬局薬剤師)
土田華代(薬局薬剤師)
浅沼希(薬局薬剤師)
山田真知子