2004年朝日新聞富山版にて寺澤が連載していた記事の中から、漢方薬にまつわる記事をピックアップして 掲載しています。今後、様々な先生方のエッセイも掲載予定です。
寺澤 捷年
「毒にも薬にもならない」という言葉があるが、今回は「毒にも薬にもなる」話をしてみたい。トリカブトは富山の山々に自生している薬草であり、附子(ぶ・し)とも呼ばれる。私が目にしたトリカブトの大群落は称名滝から大日岳登山道を上り、大日平を経て、最後の水場の付近である。紫の房状の花の形が毘沙門天がかぶっている兜(かぶと)に似ているので、小鳥のかぶと「トリカブト」と名付けられた。まことに粋な名前である。
この薬草が猛毒であることは古来知られていた。「今昔物語」には、悟りを開いた僧が、このまま俗世にながらえばこの身が汚れてしまうと考え、命を絶つために附子を食べたことが記されている。幸い目的は達せられず、「附子をくふに死なず」という結果になった。
この猛毒の附子を題材にした狂言「附子(ぶ・す)」は教科書にも採用されている有名な話である。つぼの中に砂糖を秘蔵している主(あるじ)が太郎冠者と次郎冠者に「このつぼの中には附子という猛毒が入っている。このにおいをかぐだけで命を落とす。近づいてはならない」と言い置いて外出する。留守居役の二人は扇子であおぎながらつぼに近づき砂糖であることを知り、すっかりなめてしまう。そして、主の大切にしていた掛け軸を故意に破り、「申し訳なさに、命を絶とうと、このつぼの中の附子を口にしました」と言い訳を考え出すというとんち・こっけい話である。
ところが、この附子を私たち和漢診療科では毎日、関節リウマチや神経痛の患者さんに処方し、すばらしい効果を得ている。附子の猛毒成分はアコニチン系アルカロイドであるが、これを水でせんじると加水分解されて毒性が減弱し、痛みを止めたり、新陳代謝を高めたりする化学物質に変化するのである。
数年前のこと、はるばる秋田から反射性交感神経性ジストロフィーの患者さんが受診しに来られた。体全体に激痛が走り、寝返りも打てない。東京の大病院を数カ所巡り、神経ブロックなど様々な治療を受けたが少しも改善しない。「わらをもすがる気持ちで来ました」「私はわらですか」「いいえ、そんなつもりでは」と二人で大笑いをした。この患者さんも附子が主剤の「烏頭桂枝湯(う・ず・けい・し・とう)」という処方で10年来の激痛から解放された。
漢方医学は「毒を薬にする」先人の知恵に満ちている。まさに、頭の下がる思いである。
寺澤 捷年
前回は「毒にも薬にもなる話」をしたが、今回は「食にも薬にもなる話」を記したい。
10月からNHK・BS2で韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」が始まった。16世紀初頭の朝鮮。当初、宮廷調理人だった主人公の女性が様々な困難を乗り越え、ついには国王から最も信頼される医師となるドラマだ。この日本語版の制作に当たり、私は生薬や医療に関連する部分の監修をさせて頂いている。
この監修作業を通して、薬にもなる食材が多数あることに改めて驚かされている。ショウガ、山芋、ナツメ、ネギなどはその一例である。漢方では、食物で健康を維持することが最も重要なことで、薬を用いるのは次善の策だと考えられている。食物によって健康を維持する際に助けとなるのが「食にも薬にもなる食材」というわけである。
その代表選手とも言えるショウガは、そうめんの薬味、豚肉のショウガ焼き、焼き魚に添えるハジカミ、それにおすし屋さんのガリと私たちの食生活には欠かせない。ショウガのピリ辛成分、香り成分の化学物質には胃腸を丈夫にし、食欲を増進し、吐き気を止め、体を温めて風邪の初期症状を治す効能がある。
そして驚くべきことに、私どもの和漢診療科で処方する漢方薬の実に約30%にショウガ(生薬名はショウキョウ)が配剤されている。有名な葛根湯(かっ・こん・とう)にも、つわりを直す小半夏加茯苓湯(しょう・はん・げ・か・ぶく・りょう・とう)にもショウガが配剤されている。葛根湯は麻黄や桂皮(けい・ひ)など7種類の生薬で構成されているが、この場合のショウガは麻黄や桂皮の「体を温めて風邪を追い出す作用」を助けると共に、麻黄や桂皮が胃に負担をかけるのを軽減する働きをするのである。
私たちの祖先は古くからショウガの効用を経験的に知っていた。孔子は食養生に大変気を配った人であったが、「料理についてきたショウガは残さず食べること」と、ショウガを特別に重視している(論語・郷党第十)。我が国でも「波自加弥神社」が数カ所にあるが、「ハジガミ(ショウガ)」を天からの贈り物と考え、神社にまつることにしたもののようである。
東洋の知恵は、食材と薬とを無理に区別せずに健康に過ごす「薬食同源」を提案している。「食材は食材、薬は薬」という西洋の考え方よりは、「食材も生薬も健康を維持するための共通手段」という考えの方が理にかなっていると私には思える。我が国の食生活も年々、欧風化しているが、伝統的な食生活の知恵を、私たちはもう一度見直すことが大切ではなかろうか。
寺澤 捷年
富山に生まれ育った方々には少しも不思議でないことでも、私のように東京から移り住んだ者には不思議であったり、興味をそそられたりすることがこの地にはいくつもある。その一つ「石動(いするぎ)」についての「不思議発見」を記してみたい。
「石動」は特急列車も停車するJRの駅名である。しかし県外の人でこの駅名を「いするぎ」と読めたとすれば、相当の鉄道ファンではなかろうか。その名の由来をインターネットで調査すると、実に多くの情報が検索できた。
能登・越中国境の山上に伊須流岐比古(いするぎひこ)神社があり、この山を「石動山(せきどうさん)」(石川県鹿島町)と言う。戦国時代以前に現在の小矢部市にある白馬山にこの神社から勧請した伊須流伎比古神社がまつられた。前田利家はこの山上に一城を構え、弟秀継とその子利秀を配した。1585(天正13)年の地震で東5キロの地点にあった木舟城とその城下が壊滅したのに伴い、利秀は池田・葭原(よし・はら)に城下町を造成。伊須流伎比古神社にちなんで、新しい石動「今石動」と名付けたという(富山県歴史散歩研究会『富山県の歴史散歩』山川出版社)。
伊須流伎に石動という漢字を当てたことについては「石するぎ」と「石ゆるぎ」の2説がある。そこで、古語辞典を調べると「するぐ」という用語はない。一方、「石の上」をイスノカミとする用例がある。そこで私はイシ・ユルギを一歩進めて、イス・ユルギの意で「石と動」を用いたものと提案したい。
話は変わって松尾芭蕉「おくのほそ道」(久富哲雄・講談社学術文庫)によると、芭蕉は1689(元禄2)年7月14日に高岡に泊まり、石動から津幡、金沢に至っている。そして金沢での第1句は夭折(よう・せつ)した俳人「一笑」を弔った「塚も動け 我が泣く声は 秋の風」である。「塚も動け」という表現に芭蕉の悲しみの大きさが凝集されている。
ここで私の新説を披露したい。芭蕉が北陸道の宿場、今石動を訪れたのは、この町が造成された約100年後。この地は小矢部川の河港でもあり、活気に満ちていた。そして芭蕉も私と同様に「いするぎ」という地名に心ひかれたに違いない。「石が動く」というロマンあふれる地名を胸に、芭蕉は翌日金沢に到着。「一笑」を埋葬した塚を前に「塚も動け」の句が発想されたのである。
伊須流伎比古についても多くの神話・伝承があり、興味は尽きないが今回は割愛することにしたい。