奥田 謙藏先生は、吉益東洞の学派に連なる医家に生まれ、珠玉の漢方医書を残した。
その間、多くの漢方医家を育てたが、『医界之鉄堆』の和田啓十郎氏の息子の和田 正系(千葉大出身)が高弟であったことや、偶然にも千葉県が居所になったこともあり、千葉大学の先生方と関係が深い。つまり、千葉大学東洋医学研究会創設期の藤平 健、長浜 善夫、伊藤 清夫、小倉 重成などの先生方が門人となり、そのおかげで奥田 謙藏先生の医学を伝承した。そこで、千葉大学大学院医学研究院和漢診療学の前進である千葉大学東洋医学研究会を育てた先人として、奥田 謙藏氏の業績を顕彰することを目的に、生涯を振り返る。
平成25年5月吉日
千葉大学大学院医学研究院和漢診療学・並木 隆雄
1884(明治17)年4月13日奥田光景の次男として、四国丸亀市に生まれ徳島市で育つ。兄は日本画家の奥田 芳彦(ほうげん)。
父の生家は、藤原 鎌足を祖とする三井氏で、崇徳上皇が讃岐に配流された際の随従の一人である。三井家は、三井新兵エ重行(1620~1658)以来眼科医の家系で、代々高松藩医も務めた。祖父三井公圭は吉益家に漢方学を学び、また長崎に遊学してシーボルトの鳴滝塾にも学んだとされている。父・光景は公圭の友人の奥田家を継いだ。公圭から古方の漢方医学を引き継ぎ、臨床技術にも巧みであったようだが、古方だけに固執することはなく後世方の処方を用いることもあり、また浅田宗伯とも交友があった。
そのような環境にあり、奥田 謙藏は幼少時より漢方の手ほどきを受けていたと考えられる。1915年に日本医専(現日本医科大学)を卒業、医師免許を取得したのち郷里に戻り、父から『傷寒論』『金匱要略』を主とし、『素問』『霊枢』『難経』『本草綱目』『温疫論』『十四経』などの古典を教材に、正式に漢方の基礎教育を受けた。奥田は、江戸から明治になっても断ち切られずに続いた希少な漢方家の家系といえる。
父を師として漢方を学んだのち、1918(大正8)年に上京し、東京府西部の小河内村村医として漢方専門で勤務して実地訓練を積む。1920年に綾子夫人と結婚。1922年、父の病で一時帰郷するが、その死後、1924年に再び上京。滝野川町に居を構え、本郷区湯島に加藤 玄伯と共同経営で漢方を標榜して開業、加藤の逝去後も、一人で診療を続ける。このころから奥田の名前は漢方界に知られるようになってきた。
1934年、当時の内務大臣・山本達雄に宛てた「漢方科専門標榜許可願」を作成して、自らの漢方医学の修行履歴を記し、祖父の代以来の願望である漢方医学の復興、興隆への思いを綴っている。提出の日付(昭和9年4月19日)が入った草稿が残っているが、実際に提出されたかどうかは定かでない。
空襲が激しくなった1944年、栃木県長畑に疎開し、1950年に本郷根津宮永町に復帰。漢方の診療と研究を黙々と行いながら子弟の育成にあたり、また千葉大学医学部東洋医学研究会を通じて後進に多大な影響を与えた。
疎開中に自宅管理をしていた隣人が居座って動かず、また夫人の急逝もあって転居を決意し、1953年に市川市菅野に移転。1954年には日本東洋医学会評議員を務める。
菅野においても漢方の診療を続けながら「傷寒論」の研究と著述に心血を注いでいたが、その注釈書を出版することなく、1961年3月9日未明、心臓弁膜症のため逝去。78歳。前日の夜も、病床に端座して長年にわたり推敲を繰り返してきた注釈書の原稿に筆を加えており、見舞いに訪れた門人の藤平 健に、出版を託す言葉を残した。張仲景の医方を尊崇し、古方一筋に歩んで傷寒論の研究に打ち込んだ生涯だった。
戒名は「超雲院謙山公圭居士」で、和田 正系が諡とした。墓所は鶴見総持寺(紫雲3-7)にある。
一生を費やして推敲を重ねた「傷寒論略解」の遺稿は、伊藤 清夫、藤平 健、小倉 重成、高柳 欽一、大川 清、遠田 裕政を中心に門下生らが整理し、1965年、医道の日本社から『傷寒論講義』として刊行された。
湯本 求眞(1876-1941)は奥田より8歳年長であったが、漢方復興という同じ道を歩む同志として、互いに認め合い、またよきライバルとして切磋琢磨し合う関係だった。長年の親交があり、同じ滝野川町内に住んでいたときには、しばしば自宅を訪れてきたという。
1927年6月、湯本 求眞の大著で当時の漢方医学界に大きな影響を与えた『皇漢醫學』(南江堂書店)の第一巻に跋文を寄せた。この跋は、明治初めに排斥された漢方医学の臨床における優位性を、文語体で堂々と述べたもので、奥田が研鑽してきた漢方に関するうんちくをよく表現している。かつて湯本自身が、和田啓十郎から『医界之鉄槌改訂増補』に序を依頼されたことから、同様に、奥田を後継者とみなしその才能を世に喧伝しようとして跋を依頼したと考えられている。なお奥田はその後22年間にわたり持続して、この約1500ページに及ぶ『皇漢醫學』を推敲し、校正や批評の書き込みを続けた。
湯本は、「漢方と漢藥」1935年10月号「求眞医談」にも「現代日本の漢方医中漢籍に造詣深いのは奥田 謙藏氏位のものであらう」と記しており、奥田の学識を認め期待を寄せていたことが窺われる。湯本が1941年に姫路で急逝した際に奥田は、「余の湯本氏と親交を結び、生死を誓ってともにこの道に専念したるは実に二十余年の昔にあり」との弔辞をしたためた。
奥田の治験例はほとんど記録には残っておらず、『漢方と漢薬』第4巻第5号に「懐舊録」があるのみだが、腹診については『古方便覧』(六角重任)を高く評価しており、千葉の藤平 健、小倉 重成、伊藤 清夫らの腹診実技は、奥田から伝わったと考えられる。門人らは、診療の様子を時々見る機会があり、また診察に難渋している患者を奥田に診察してもらったりしていたことを記している。
診療の基本は腹候と症候に基づく方証相対による治療で、古方に徹していた。処方では合方はほとんどせず、桂枝湯や葛根湯、麻黄湯を得意としていた。特に桂枝湯を好み、桂枝加桂湯、桂枝加葛根湯、桂枝加芍薬湯など桂枝湯の変方をよく用いた。
なお奥田は、「実験漢方医学叢書」(春陽堂、1934)の中で、大塚の推薦により、「第5巻薬方解説編皇漢医学要方解説」を担当し、初めて古方の処方分類を行っている。「類方分類」法をとり主方の名称を分類項目として立て、それと関連する処方群をまとめた。
奥田 謙藏『漢方古方要方解説』の方剤分類
奥田は数多くの漢方家を輩出したが、とりわけ千葉大学とのかかわりが深い。1932年に『医界之鉄槌』の著者である和田 啓十郎の子息・和田 正系が入門し、1937年には藤平 健、1938年福田莞爾、1940年長濱善夫、1948年小倉 重成、伊藤 清夫、1950年石野 信安、鍋谷 欣市など優れた人材が次々と入門。後に千葉大学東洋医学研究会の中心人物となり、また日本東洋医学会で指導的立場に立っていく。
1950年と53年には、千葉大学眼科教室教授伊東弥恵治を会長として組織された千葉大学東洋医学研究会の自由講座にて、千葉大学や木更津の小倉眼科医院を会場として、傷寒論や診断法についての臨床講義を行っている。小柄な和服姿の奥田が、周囲の教授達にも臆することなく凛として登壇した様子が印象的だったと、鍋谷 欣市は語っている。また奥田は非常に植物採集が好きで、この頃、東洋医学研究会の学生らと共に、千葉県鹿野山や清澄山の植物採集会にも出向いている。
昭和初期には和田 正系をはじめとした3、4人で始まった講義は、次第に門人が増え、1948年には「東京漢方研究会」として定期的な勉強会が行われるようになり、門下の会誌『古医学研究』の刊行に伴って1954年に「奥門会」とした。門人は40数名を数える。
1950年には上野池之端で月に2回、奥田を講師として『傷寒論』『金匱要略』『類聚方広義』などを学んでいた記録がある。1953年に市川市菅野に移転してからは、毎月第2、3、4土曜夕方に奥田宅で集会して長いテーブルを囲み、『類聚方広義』講義、症例研究質問会、『傷寒論』講義など、2時間ほどの勉強会を行っていた。
なお『古医学研究』は、1955年に藤平眼科院内に事務所を開設して創刊され、奥田の死後も遺稿を中心に発刊が続けられたが、創刊から8年後の1962年12月、終刊した。
1955(昭和30)年5月「奥門会会員名簿(入門順)」 | ||||
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和田 正系 | 堤 辰郎 | 藤平 健 | 長浜 善夫 | 館野 健 |
武藤 留吉(薬) | 伊藤 清夫 | 小倉 重成 | 石野 信安 | 千葉 東弥(薬) |
鍋谷 欣市 | 餅崎 勝寿(薬) | 島津 秀雄(薬) | 板倉 米子(薬) | 根本 幸一 |
竹内 達 | 岩井 秀夫 | 初芝 澄雄 (医学生) |
藤田 朝雄 | 鳥本 平八郎 (編集発行人) |
1961(昭和36)年「奥門会会員並びに関係者名簿」 | ||||
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和田 正系 | 堤 辰郎 | 藤平 健 | 長浜 善夫 | 館野 健 |
武藤 留吉(薬) | 伊藤 清夫 | 小倉 重成 | 石野 信安 | 薬丸 比呂志 |
千葉 東弥(薬) | 鍋谷 欣市 | 餅崎 勝寿(薬) | 島津 秀雄(薬) | 板倉 米子(薬) |
根本 幸一 | 竹内 達 | 岩井 秀夫 | 初芝 澄雄 | 藤田 朝雄 |
原田 正敏(薬) | 渡辺 由松 | 端野 正治 | 伊東 宏(薬) | 大川 清(薬) |
大川 和子(薬) | 加藤 祐康(薬) | 道口 一雄(薬) | 神永 好章 | 篠原 鉄郎 |
高柳 欽一 | 遠田 裕政 (医学生) |
根津宮永町時代の奥田
(昌平クリニック・奥学会ホームページより)
奥田は謹厳実直、生真面目であった。戦前には夫人に「自分は漢方の捨て石になるつもりだ」と語っており、質素に生活しながら、崇高な志を持って「傷寒論」の研究と後進の指導育成に一生をかけた。
奥田を知る人は「高潔」「志操堅固」「端然として内には強い信念を秘めている」「清高で慈愛に満ち端正」などと表現しており、外見は小柄ながらも、堂々とした威厳と風格があった。また礼を重んじ、講義の際には門人であっても客扱いして上座に据え自分は下座で講義を行うほどで、言葉遣いも極めて丁寧であった。几帳面な性格で、片付けのために机の物の位置が動いていることも嫌ったという。いつでもきれいに掃除された部屋で、調度品なども同じ所に置いてあって清潔好きで折り目正しい性格が伺えたと、『漢方と漢薬』誌の編集者が述懐している。門人たちによる謝恩旅行でも、自分の費用は必ず自分で支払った。
しかし、近づきがたい堅物というタイプではなく、常に温厚で謙虚であり、親しみやすくユーモアも解し、多くの弟子たちに慕われていた。甘党で酒は猪口2杯程度しか飲めなかったが、宴席のにぎやかな雰囲気は好きで、終始ニコニコと楽しんでいた。
漢方一筋で、余暇もほとんど全てを研究や講義に費やし、趣味という事柄はなかったが、漢詩や俳句を作ることを好み、植物採集の時にもよく作った。また奥門会の新年会や旅行会などの宴席で粋な小唄を披露して、門下生たちを驚かせることもあった。
怒ったり声を荒げたり愚痴をこぼしたりすることはなく、穏やかで万事控えめであったが、夫人が1951年元旦に脳塞栓で急逝した折、漢方で救命できなかったことを揶揄するような誹謗中傷の匿名葉書を受け取った際には、大きな悲しみと憤りをこらえている様子を感じとったと、のちに藤平が述べている。
16歳年下の夫人に先立たれるという不幸に見舞われはしたが、わが親のように慕う門人らに囲まれ、また養女サイの手厚い看病を受けて晩年を送った。
鍋谷 欣市が奥田より寄贈された手沢本の『古方便覧乾坤』(六角重任著)。少なくとも3代以上の手に渡ってきた三様の書き込みがあり、「悸(ビクツキ)、動よりは小さくしてびくびくと手に中をいう」など、奥田の書き込みも見られる。
◇ 小倉家で講義を終えて(1950年9月22日)
前列(向かって右から)
小倉重成、伊藤清夫、奥田謙藏、奥田サイ
後列(向かって右から)
鍋谷欣市、藤平健、石野信安、島津秀雄
◇ 鹿野山での植物採集(1950年9月23日)
前列(向かって右から)
奥田サイ、奥田謙藏、伊藤清夫、藤平健の子息2人と夫人
後列(向かって右から)
小倉重成、鍋谷欣市、高柳欽一、藤平健、島津秀雄
◇ 清澄山での植物採集(1951年10月7日)
1列目(向かって右から)
小倉重成、千葉東弥、藤平健(左3人は長狭高校)
2列目(向かって右から)
(右端不明)、渡辺由松、石野信安、武藤留吉、奥田謙藏、奥田サイ、餅崎勝寿
3列目(向かって右から)
飯島、鍋谷欣市
◇ 『アサヒグラフ』に掲載(1955年)
慎重に推敲熟考を重ね納得がいくまで決して出版しなかったため、著作自体は少ない。
1926年「皇漢醫學の治療定則に就て」加藤 玄伯著『慢性病の治療と漢方医術』
1927年「皇漢醫學跋」湯本 求眞著『皇漢醫學』第一巻
1932年「皇漢醫の呼称に就て」『古医道』第一巻第五号
1933年「傷寒論講義」(一)~(六)『古医道』第二巻第一号~最終巻
1934年「漢方科専門標榜許可願」皇漢醫界社特製原稿用紙に手書き
1934年「傷寒論講義」『漢方と漢薬』(日本漢方医学会機関誌)第一巻第一号より全14回
1937年「懐舊録」『漢方と漢薬』第四巻第五号
1937年「有終庵雑抄」『漢方と漢薬』第四巻第七号より全16回
1941年「傷寒論に就て」『漢方と漢薬』第五巻第五号
1941年「湯本 求眞氏の長逝を悼む」『漢方と漢薬』第八巻第十一号
1942年「合病と併病に就て」『漢方と漢薬』第九巻第十号