伊藤清夫先生は、旧制千葉医科大学を卒業された後、入局した眼科の医局で、年下ではありましたが、同門の藤平 健先生から熱心に誘われ、小倉重成先生に引き続いて、漢方を深く学ぶこととなります。ここに書いた3先生は、漢方を極められた先生方であったことや眼科の同門でもあったため、「千葉の三羽がらす」と敬意を持って呼ばれたことを今回の取材の過程でお聞きました。
それだけ強いきずながありましたが、この3名の先輩はそれぞれ個性が異なっていたように思います。私の印象で申しますと、藤平先生は初め傷寒論古方のみでしたが、のちには後世方も含めて、いろいろな方法を取り入れた先生でした(そういえば、「歩け歩け運動」もされていました)。それに対し、小倉重成先生は古方一本やりで、加えて独自の運動療養や食事療法を取り入れて難病に立ち向かった先生でした。そして、伊藤清夫先生は医業の傍らに、日本東洋医学会の運営を含めた学会活動・研究会活動を最も熱意をもってされた方と聞いております。漢方については、奥田先生から学んだ古方を中心としたものから、それに本草学の知識を駆使した生薬の加減方に取り組まれ、さらに、附子などの成分研究に注目するなど科学的視点を重視した先生でもあったと思います。
多分、どの3先生も、当時の西洋医学でお手上げであった難治の症例を多く抱えて、それぞれの先生の個性に沿って患者様のため、いろいろなアプローチを考えられたのだと思います。そのためには並大抵の努力ではなく、お互い刺激し合い、切磋琢磨をし合ったように思います。そういう仲間であり同士であったからこそ、古方から始めた漢方をそれぞれ違った三つの高峰にできたのだと思います。
「千葉の三羽がらす」の先生方が、そのような違うアプローチを考えてくださったおかげで、かく言う私も、先輩の各種方法論を利用して、浅学非才ながら日本中から集まる患者様に一部とはいえ、還元できております。この引き継いだDNAをぜひ、日本、いや世界の医療関係者に利用していただければ、科学を重視した藤平健先生、小倉重成先生、伊藤清夫先生を始めとした先輩たちの本意であろうと考えます。
これを機会に、この3先生の偉業を振り返っていただければと存じます。
3先輩の医業のまとめとして
令和1年8月吉日
千葉大学大学院医学研究院和漢診療学・並木 隆雄
1910(明治43)年9月1日、父・伊藤清太郎、母・はつの長男として、東京深川扇橋町(現・江東区扇橋)に生まれる。1917(大正5)年に東京市立王子小学校へ入学し、小学5年生で福井県福井市に移住。1922年福井市立宝永小学校、1927年に福井県立福井中学校を卒業するが、中学4年の末から肺結核で1年休学した。中学では、心臓外科で著名な医師の榊原仟と同級で親友であった。結核を患った経験が、後に伊藤が食養生について研究するきっかけの1つになる。伊藤は「生来病弱であった自分より榊原が先に亡くなったのは、食養のためかもしれない」と、鍋谷欣市に語っている。
10人兄弟(男6人女4人)の長男であり、22歳の時に両親が亡くなったため、文字通り一家の大黒柱となる。若い頃は絵を描いていた時期もあり、画家になる夢を持っていたが、弟妹たちの面倒を見て生活を支えるために医師となることを決意する。
1931年に旧制第八高等学校(現名古屋大学)理乙卒業。千葉医科大学(現千葉大学医学部)に進学し、1938年に卒業。眼科学教室へ入局して、教授の伊東弥惠治に師事する。伊東は当時眼科医として高名だったばかりでなく、文化人で絵画や美術、書などにも造詣が深く、伊藤とも話が合ったようである。
入局後は木更津の君津中央病院眼科に勤務。患者が非常に多く、日によっては300人も診察したと、後年、対談で述べている。1939年に同科医長となり、翌1940年、千葉市中央区院内に伊藤医院(眼科)を開業。戦前は、多い日には200人の患者が来院するほど繁盛していた。医院は空襲で焼けたが、戦後、材木の配給で医院の跡地にバラックを建てて、眼科を再開する。この頃から、奥田謙蔵の門下に入り、漢方を学び始める。なお1948年頃には千葉刑務所の嘱託医も務めていた。
1960年に医学博士号授与。そのとき恩師の伊東彌惠治はすでに逝去しており、鈴木宜民を担当教授として学位を得た。学位論文は「高血圧症の眼底変化の統計学的研究」。
私生活では、千葉大学医学部時代に、東京家政大学の前身である渡辺女学校に通っていた喜多原まさを、千葉大学亥鼻祭で見初めて、1938年に結婚。4女1男(みさ、きさ、りつ、きよ、清司)に恵まれた。伊藤は家庭では、「明治の男」らしく厳格な父であったが、「女子でも教育を受けさせることが嫁入り道具」という考えから、娘たちの教育にも熱心だった。
疎開してきた伊藤の兄弟も含め、14人の大家族で暮らしていた時代もあり、特に戦中戦後には経済的にも苦労したが、控えめで忍耐強い性格の妻・まさが、洋裁で家計を助けながら、伊藤や家族たちを陰で支えた。
1948年、三井家の流れを継ぐ奥田謙蔵に師事して漢方を学び始める。奥田との出会いは、奥田が栃木県今市市へ疎開し、時々上京しては武藤留吉宅で講義していた、1947年頃。しかし、出会いの当時の伊藤は芝居などに夢中で、漢方には興味を示さなかった。その頃の芝居仲間に、千葉大学東洋医学研究会を藤平健とともに立ち上げ、戦後、日本東洋医学会の創立にも貢献した長浜善夫(1915~1961)がいる。漢方を先に学び始めたのは長浜だった。長浜の影響もあるものの、伊藤が奥田に師事することになったきっかけは、同じ眼科で2年下にいた藤平健からの、度重なる勧誘によるものであった。
もともと日本の文化的なことに関心が高かった伊藤だが、藤平の誘いには、「忙しい」からと当初はなかなか首を縦に振らなかった。しかし藤平の熱意にほだされ、また日本の原点の医学が漢方だということを知り、奥田宅での漢方講義に参加することになる。そしてその後は、漢方にのめり込んでいく。藤平いわく、「(伊藤は)奥田先生のところへ行き始めた頃はもうおとなしくて、おとなしくて、ほとんど口を利かないくらい」「それが漢方に興味を持つようになったら、激しくなって、そのうちに1人で会をかき回すぐらいにいろいろなことを指示したり、すごくなった」というほど、漢方へ情熱を傾けていく。
同時期に奥田の元で学んだメンバーは、一番弟子の和田正系をはじめ、藤平健、小倉重成、石野信安、千葉東弥、鍋谷欣市らがいる。薬大生が加わることもあり、講義は多いときは15、6人になった。
奥田の門人会の名称は、「東京漢方医学会」から「奥門会」となり、それにあわせて機関誌も『漢方通信』から『古医学研究』へと切り替わった。同誌発刊の目的は「日本の漢方の正当である”古医方”を研究して、医学の向上に資せんとする」こととして、奥門会の発表の場となった。1955年6月の創刊から奥田が亡くなる1962年12月の「8巻第12号」まで、伊藤が編集人となり発行し続けた。発行当初は編集事務を手伝う者もいたが、後には編集事務から発送まで全てを伊藤1人で行うことになり、16ページの小冊子とはいえ毎月発行するのは大変だった。
同誌のレギュラー執筆陣は、奥田のほか、和田正系、藤平健、小倉重成、伊藤清夫。ほかに、館野健、原田正敏、石野信安などが執筆することもあった。奥田は大変几帳面な性格で、原稿を書く際には一字一句おろそかにすることなく締め切り前に必ず仕上げ、校正も綿密に行った。門人の原稿の遅れによって冊子の発行が延びたり、あるいは誤字があったりすることを、奥田が大変気にしたため、伊藤はかなり気をもんだという。伊藤自身も「養生法講座」の連載を執筆していた。
編集の才があった伊藤が中心となって、奥田の死後、その講義をまとめた『傷寒論講義』を編集し、1965年3月に医道の日本社から出版。門人らはかねてより出版を切望していたが、原稿の内容に厳正で完璧になるまで推敲に推敲を重ねる奥田はなかなかゴーサインを出さず、脱稿間近で死去してしまった。そのため、遺された6冊のノートを門人数人で手分けして清書し、出版にこぎ着けた。伊藤が清書専用の原稿用紙を作るなど、手分けをしても個人差が出ないための工夫を重ねて始めたが、記載内容に繰り返し協議しないと解決できない場合などもあって、大変苦労したと伊藤は述べている。この本は昭和における『傷寒論』解説書の古典となった(『漢方古方要方 解説』復刻版やオンデマンド版で現在でも入手可能)。
1950(昭和25)年、長浜善夫、和田正系、藤平健、小倉重成らとともに、日本東洋医学会の設立に参画する。
学会本部は千葉医大(現千葉大学医学部)眼科教室内に設置され、その後1958年に(株)ツムラの後援で中将湯ビル診療所薬局内に事務所を移転、1985年にビルが解体されるまで置かれていた。診療所内で毎月夕刻から理事会が開かれ、大塚敬節をはじめ、千葉からは藤平健、伊藤清夫、長浜善夫、小倉重成ら、東京からは矢数道明ら、横浜からは石原明らが参加して学会の運営にあたった。
伊藤は1955~67年に日本東洋医学会理事となり、1968年に、相見三郎の後を継いで第7代日本東洋医学会理事長に就任。以来、1972年まで理事長を務めることとなる。当時の理事長職はかなりの責任職であったというが、5期5年にわたって激務をこなした。伊藤は理事長として、特に関東と関西の連絡や協和にも力を注ぎながら、学会の基礎を確立。折しも、東京オリンピック後で西洋医学が盛んに導入された頃であり、温故知新たる東洋医学に対する理解が得にくい苦難の時代であったが、確固たる信念を抱いて、地道な基礎固めを行っていった。こうした活動が、やがて日本医師会長・武見太郎の英断による漢方薬の健康保険収載に結びつき、日本東洋医学会自体も発展していくことになる。
理事長退任後は、1973年から日本東洋医学会評議員。そして1979年には、日本東洋医学会の第30回学術総会会頭。3回にわたる準備委員長の経験を踏まえて責務を全うし、学会の発展に大きく貢献した。1989年より日本東洋医学会名誉会員。
ちなみに、東洋医学会設立時に作られた「醫」をデザインしたバッジ醫は、伊藤のアイデアによるもの。かつては学会などの際に会員が着用していた。
1940年に伊藤医院を開業、当初は眼科を中心としていたが、次第に主たる診療は漢方・食養に移っていった。細かい症状に対処するため、基本的には生薬を処方。薬局の生薬在庫はかなりの量に上った。薬局は、妻のまさ、次女のきさを中心に、長女で医師のみさ、四女で薬剤師のきよらが手伝うこともあった。
伊藤医院には全国から患者が集まるようになり、地方の患者へ漢方薬を送付する際にも必ず手紙を添える几帳面さが、さらに信頼を厚くした。患者には劇団や文壇関係者も多く、著名人では渥美清や市原悦子、瀬戸内寂聴らがいた。来院するのはリウマチを中心とした難病患者が多く、伊藤は附子・烏頭剤の研究・開発に力を注ぐようになる。
小倉の「潜証論」、藤平の「併病論」に対して、伊藤は自分の漢方治療は「逐次実験法」と中村謙介に語っていた。中村は、10回ほど外来を見学しており、様子を「初診を特に丁寧に診察し、主方を決めると、あとはあまり転方せず、愁訴や腹診で加味。疼痛でもその様子で加味する生薬を選定し、その量もその都度加減して効果を上げていた。中医学的な個々の生薬の知識をかなり重視しているようだった。主方を変えない加味での対応だった」「主方は奥田謙蔵の名残で古方であり、多数の加味を繰り返す。薬方単位という考えから離脱して生薬単位の治療法へと大きく変化している。生涯をかけてつかみ取った用法上の工夫」などと述べている。
また鎌田慶市郎には、自らの漢方について、処方は基本法に対してどんどん加味していくことから「中医古方派」と称していたこともある。その面では藤平健とは相容れなかった。またリウマチに対する漢方治療については、伊藤が「柴胡剤を必要」と考えるのに対し、小倉重成は「柴胡剤は禁忌である」とし、意見がよく対立していたという。
1958年、法人組織として初の漢方診療施設として、東京日本橋に医療法人金匱会中将湯ビル診療所(現金匱会診療所)が誕生(所長・大塚敬節)。漢方診療とともに、漢方医の教育機関としての役割も果たすこの診療所で、伊藤は定期的に診療を行うようになる。1971年頃、京都の緒方芳郎(玄芳)は、大塚と伊藤の診療に陪席していたとの記載がある。また、サテライト診療所である四谷西華クリニックにも、15年間診療に出向いていた
伊藤の門弟は、千葉の藤巻日出男、鎌田慶市郎、高橋法昭、中村謙介、鍋谷欣市、松下嘉一、盛克己、弘前の神靖衛、広島の小川新ら。また、ウチダ和漢薬で社長・会長を務めた伊藤敏雄とも親交が深かった。
生来体が弱く、中学のときに病気休学して以来、栄養学や食養生に関心を持つようになった。医学部時代には、食養の問題は西洋医学的「栄養学」で全て片付くと考えられていたことに疑問を抱く。日本人の食物や日本人の食事に関する専門的な研究がほとんど無いこと、一方民間には、食事療法や食養として、日本人の食物や食事についての考え方や方法が存在することを知るようになったと著書で述べている。
やがて漢方医学を学び、病気に対しても西洋医学とは別な東洋医学的方法が厳然として存在することを知るとともに、「日本人の食生活をどうするか」を検討するようになる。例えば、加工度の強い食物や付け味で食物の味を作ることを懸念している。「口においしいからといって、その食物をそのまま信用することはできない。操作によって安全性が損なわれる危険が増大する。危険な食品、ごまかし食品は増えはしても減りはしないだろうし、操作を加えた食物が私達の食生活の中に占める比率も大きくなる一方である。したがって私たちは、食物、食品について、今までよりいっそう広い知識を持たなければ、自らの健康を守るためのしっかりした食事方針を立てることができない」などと記している。
漢方の食養との関係について詳細に検証し、主として一般向けに『食を活かす(全3巻)』を著しているが、健康法や健康食品、食品などについての警鐘は、現在でもそのままあてはまる内容である。
リウマチなどの難病に取り組み、附子の研究に精魂を傾けた。現在使用されているような、毒性が少なく治療効果の高い附子剤が開発されたのは、伊藤の功績によるところが大きい。1979年に、矢数道明と共同総監修で、『附子の研究』を出版科学総合研究所から出版した。
日本の漢方医学の行く末を案じ、東亜医学協会会長の矢数道明らとともに、1991年に「漢方湯液治療研究会」を発足、同年11月10日に第1回研究会を開催する。慢性関節リウマチなどの難病や気管支喘息についての治療、またがんに対する湯液治療の報告なども、四谷西華クリニック・新井基夫と共同発表している。この研究会は、「漢方治療研究会」として現在まで続いている。
○全国での漢方普及活動
伊藤は日本東洋医学会理事長として、中央と地方、本部と地方支部の関係などに配慮し、それぞれの地方部会の特性に応じた運営を心がけていた。中四国支部の各県部会の運営には特に力を入れており、各地で1人で傷寒論の講義・解説をしては、広島から夜の寝台車で千葉に戻っていた。
広島で長年にわたる親交があったのは、小川新(1920~2005)。社会保険広島市民病院外科部長から普照小川医院を開業し、広島漢方研究会会長、1986年には第37回日本東洋医学会学術総会会頭も務めた人物である。1970年、広島で開かれた学術総会の際に、理事長だった伊藤が広島で運営について指導したことから、親しい関係となったとみられる。誠実で柔和で柔軟な心、安心して接することができる人柄と、伊藤は小川を評している。
東洋医学会理事長退任後も、伊藤は積極的に地方へ出向いて「実践漢方講座」と題した連続講演を行い、地道に漢方の普及を続けた。往復の車中はもっぱら原稿を書くことに費やし、講演後にはしばしば、風景撮影へ出かけた。鳥取や広島では10年間で延べ60回ほどの講演を行ったほか、新潟や弘前でも、それぞれ数10回に渡って出向き、講義を行った。弘前には、千葉大学医学部を卒業した医師であり牧師でもある、神インマヌエル医院の神靖衛がおり、晩年は神が撮影に同行することもあったという。
○日本漢方協会の発足
伊藤が日本東洋医学会理事長だった1970年、主に薬剤師を対象とした「正しい漢方知識の普及」を目的に、日本漢方協議会(現日本漢方協会)が発足(会長・追平春樹)。伊藤が講師団団長を務め、事務は小太郎漢方製薬・内田商店(現ウチダ和漢薬)が受け持ってスタートした。
日本東洋医学会の理事が講師となり、「漢方特別講座」(のちに「漢方総合講座」)を開催。常任講師には伊藤のほか、小倉重成、大塚恭男、寺師睦宗、原田正敏、藤平健、藤井美樹、松下嘉一、山田光胤、矢数圭堂らが名を連ねている。現在、「漢方総合講座」は、財団法人日本薬剤師研修センター認定「漢方薬・生薬認定薬剤師」の更新時必修研修。また年に一度、漢方学術大会が開かれ、漢方薬局製剤・調剤実習や植物園におけるフィールド学習なども行われている。
○千葉大東医研の常任講師
眼科教授・伊東彌恵治のもと、藤平健、長浜善夫らにより1939年に発足した旧制千葉医科大学東洋医学研究会(東医研)は、第二次世界大戦によって活動が途絶えていた。終戦後の1947年、学生であった高柳欽一の呼びかけで、再発足。それとともに、学生が選択で自由に受講できる課外授業として、週に1回の「東洋医学自由講座」を開講した。1949年より系統講義は藤平・小倉が行い、伊藤は和田正系とともに常任講師となって東洋医学一般や食養について受け持ち、後進の育成にあたった。
「東洋医学自由講座」は、一般公開され誰でも参加可能な講座として、現在でも定期的に開かれている。
○聖光園細野診療所との交友
伊藤の次に日本東洋医学会の理事長を務めた、聖光園細野診療所の坂口弘(1921-2003)は、旧制八高で伊藤の10年後輩にあたる。細野診療所とは漢方診療上の交流は特になかったものの、造園に興味のある伊藤が、所長の細野史郎(1899-1989)を「オヤジさん」と呼んでよく訪問しては庭を見ていくなどの関係であったようだが、それは坂口とのつながりがきっかけとも考えられる。
坂口を湯液治療研究会の特別講演に招聘するなど、交友が続いていた。後年、坂口ががんを患い術後の静養を続けていたときには、「漢方でがん患者を救う道を求めて研究を始め、相当の成績を得ているので東京へ出てこないか」という旨の長文の手紙を、坂口に送っている。晩年の伊藤が、がんの治療にも注力し、やがて湯液研究会の発足へつながっていくことがうかがわれる。
自宅は2世帯住宅で、1階に伊藤と妻のまさ、2階は次女・岩倉きさの一家が住んだ。医院は同じ敷地内にある3階建ての別棟の1階。若い頃より、診療が終わると夜はどこかへ出かけていったが、どこへ行っているのか、家族にも全く分からなかったという。晩年になってもその習慣は変わることがなく、「雨が降ろうと風が吹こうと、杖をついて袋を下げ、夜の街へ消えていった。歳を重ねるにつれ帰りは早くなった」と娘が述べている。
1997年9月、半世紀以上に及ぶ付き合いとなった盟友・藤平健が死去すると、伊藤は激しく落胆する。「藤平さんのあの火葬場でお別れした顔が頭から離れない」「骨を拾ってつくづく人生のはかなさを感じた」などと、会う人会う人に寂しそうに何回も話し、家では話しながら涙も見せていたという。
同年10月11日、伊藤を元気づけようとした家族が「米寿の会」を企画する。伊藤はこのときは大変喜んで元気を取り戻したように見えたものの、その後は次第に横になって寝ることが多くなり、診療も辛そうな様子になる。元々食が細いところに、さらに日増しに食事量が減り、家では何を食べてもおいしくないと言って、何度も妻に作り直しをさせるようになった。家での口数も少なくなる。
10月23~28日には第20回となる恒例の写真展を開き、11月5日の診療後にはロストロポービッチのチェロ演奏会を鑑賞。同15日には、いつも泊まりがけだった仙台講義に日帰りする。
12月5日から寝込み、9日にはかゆ食にも全く手を付けずカロリーメイトを1本飲むのみとなる。13日に点滴開始するが、伊藤は注射嫌いなので大変だったと、門人の高橋法昭が語っている。また中耳炎を併発し、門人である耳鼻科医の鎌田慶市郎が往診している。松下嘉一の計らいで入院することになったが、病院へ行く車まで運んでも、最後の力を振り絞るようにして居間の椅子まで駆け戻って座り、「行くのは嫌だ」というため、ついに救急車で入院の仕儀となった。入院中には廊下で転倒し、大腿骨折をして手術を受けたこともあった。
そして1998年6月15日午前2時45分、肺炎のため帰らぬ人となった。享年89。葬儀には延べ1000人以上が参列し、その死を悼んだ。戒名は「泉薬院医徳嚴清居士」。代々、北原家(妻まさの実家)の菩提寺だった千葉県中央区院内の寶幢院(ほうどういん)に眠る。
日本漢方古方の大家であることはもとより、漢方界でも随一の趣味人として医学以外にも多方面に才を発揮したことは、伊藤を語る上で欠かせない。
風景写真は、プロ並の腕前だった。Nikonのズーム一眼レフを愛用し、「水」がテーマとした写真が中心で、特に奥入瀬や八甲田、千葉の房州を好んでしばしば撮影に出かけた。また全国各地の講演をする先々で、帰りには写真を撮って帰ってきた。伊藤は、若い頃に絵を描いていたことからも、風景画のような構図で風景を切り取るのがうまく、光と影に対する感性も鋭かった。奥入瀬・八甲田、北陸の海などで撮影した「水の流れ」「水の動き」を入れた作品が多い。粘り強くシャッターチャンスを狙うタイプで、例えば、画角にカモメが飛んでくるまで2、3時間じっと待つことも厭わなかった。60歳代頃まではいつも1人で撮影に行っていたが、晩年は講演先の門人と連れ立っていくこともあったという。写真の現像については、千葉市内のうさみ写真館と懇意にしていた。
カラー写真になってからは、個展を開くようになる。1978年、千葉市中央区の画廊・ジュライで第1回個展風景写真展を開催。以来、「波と流れ」をテーマに毎年個展を開き、第20回まで続いた。個展会場に来た人をアップで撮影するのが恒例だった。
作品は額装して、門下生の開業時などに祝い品として贈ることも多く、千葉市のもり内科クリニック(院長・盛克己)、市川市の藤巻クリニック(院長・藤巻日出男)などには、伊藤から贈られた写真が現在でも医院内に飾られている。
なお、画廊の1階にあった喫茶「ジュン」は、千葉県バーテンダー協会会長の内田が営んでいた店で、市民劇場との関わりもあった。伊藤は酒は飲まないが、何十年も通っていたようである。
診療所2階奥の和室に人を招いて、質のよいもの・貴重なものなどを出すのが好きだった。日本料理をたしなみ、自身はほとんど酒を飲まないにもかかわらず、全国の珍味や酒を集めていた。それを客人に振る舞う際には、1品ずつにうんちくがつく。富山の名産・鮎の内臓の塩漬け「うるか」はとくに好きで、訪客には必ず賞味させていた。ただ来客の都度、家族総出での準備が必要で、1階の台所から2階の座敷までのお運びも大変だったようである。
大学時代も自炊をしており、自分でも日本料理を作る。食材にもこだわって、自ら素材や味噌などの調味料も判別して仕入るほど徹底していた。門人の鎌田慶市郎には、解禁間もない越前ガニを自宅まで持参し、見事な包丁さばきを見せたこともある。
ただ伊藤自身は少食で酒も飲まないので、会食の席などでは、ほとんど飲んだり食べたりせず、他人が飲んでいる間、もっぱらカメラを持って撮っていたようである。
大学に入ったときから、現代語を使って和歌の精神を活かす「新短歌」を始める。雑誌『火の群れ』は、伊藤を発行人として1971年から刊行されたもの。新短歌連盟では理事も務めていた。もともと書くことにはまめで、いつも短歌メモを持ち歩いてアイデアを書き留め、多くの作品を残している。
漢方に関わる作品
海にそそぐ流れ
絶えまなくあふれる泉は
せせらぎとなり小川となり
やがて大きな流れとなる
私たちの漢方にそそぐ
あふれる想いは五十年にして
日本漢方の大きな流れになった
流れはやがて海にそそぐだろう
私たちの漢方に寄せる熱い期待は
世界のすみずみまで届くに違いない
晩年の作品から
いちめんに芽吹く青葉 来年も見られるかなと思いながら また一ぷく
流れる雲を無心にながめていた若い日 時の経過には無関心だった
遠くの街のざわめきが潮騒のように枕辺に伝わってくる午前二時 孤独の存在を確かめる
ぼろぼろと人の名が記憶から落ちていく つまりその人は僕から消え失せたのだ
ふっと記憶がうすれ近い存在も急速に遠のく 呆けはこうして進むのか
公園を一廻りするだけで一日は終わる 残された老いの日々がそのためにあるように
生きている以上は生きねばならぬ 食べたくないのに錠のように飯を食う
過去を断ち切れば新たな出発ができるが 記憶喪失になれば歩き出せまい
地方訪問の折には、よく焼き物を鑑賞したり窯元に足を運んだりしていた。診療所2階の、客人を招く際に使用した和室の手前には、伊藤のコレクションを陳列してあるホール(洋間)があった。本棚に写真集や全集などの本が並び、ガラスショーケースには陶器を中心としたコレクションの数々が陳列されていた。茶碗や茶道具、花瓶、火鉢、キセルなど様々な骨董品や、陶芸品数百点が飾られていた。渋好みで、備前焼などが多かった。
大学時代には、千葉医科大学劇研究会(総責任者は眼科教授の伊東彌惠治)に属し、主に舞台装置を作っていた。長浜善夫が書いた戯曲で伊藤が舞台装置を担当し、藤平健を女中役でキャスティングしたこともある。伊藤がメーキャップも担当したが、藤平が体格がよいため、女性の着物が様にならなくて困ったというエピソードもある。
千葉市市民劇団顧問を務め、診療所の3階を稽古場として提供していたこともあった。当時の市民劇場のメンバーに、市原悦子などがいる。
音楽はクラシックを好んだ。子どもにも本物に触れさせるという方針から、ベルリンフィルやウィーンフィル、ヤッシャ・ハイフェッツ(ヴァイオリン)、マーゴ・フォンテイン(バレエ)などをはじめ、京劇、サーカスなどまで、一流の演奏会、舞台などの来日公演には、子どもたちも連れて鑑賞している。
元々は油絵や水彩画を描いていたが、医師になってからは「1枚の絵に3カ月も費やす時間はない」ため、もっぱら鑑賞専門。千葉大学時代には「白鯨社」という同人会にも籍を置いており、門人の鍋谷欣市もこの会に所属していた。
着る服や靴などにもこだわりを持ち、おしゃれだった。帽子が好きで、ループタイを愛用。また、写真撮影時にはブルゾンを着用していた。
葉巻や紙巻きたばこを晩年まで吸っていたが、たばこにもこだわりがあり、イギリスの老舗たばこ、CRAVENやTHREE CASTLESしか吸わなかった。
その他、京都の庭園研究調査などにも深い知識を有しており、小唄、茶道などもたしなみ、実に幅広い教養人であった。
左から笠原、伊藤、武藤
(1960年代?)
たびたび講演に訪れた青森
(1983年頃)
「実践漢方のための傷寒論」講演風景
(1986年)
講演風景 後ろには撮影した写真が並んでいる
東亜医学協会の会合(前列左端が伊藤)
門下の盛克己らとともに
伊藤先生のカルテ
ベレー帽を愛用。うさみ写真館前にて
日本海での撮影。波をテーマにした作品が多い
愛用のカメラはNikon。いつも持ち歩いていた
奥入瀬には頻回に撮影に訪れた
水のある風景の写真が多い
1978年から20年間、毎年写真の個展を開く
個展会場に訪れた人に、しばしばカメラを向けた
(1992年)
個展に訪れた人に作品解説
(1992年)
常に短歌メモを持ち歩き、アイディアを書き留めた
篆刻の神様・石井隻石氏とともに
診療所2階の応接室にて家族団らん
自宅の離れにて
愛煙家で、イギリスのたばこCRAVENやTHREE CASTLESを吸った
菩提寺は千葉市中央区の寶幢院
岩倉きさ(伊藤清夫 次女)
川戸幸子
鎌田慶市郎
盛克己(もり内科クリニック)
藤巻日出男(藤巻クリニック)
伊藤敏雄(日本漢方協会)
兒玉由佳
各方面に論文や論説、随筆などを多数公表。雑誌連載も多い。
主な連載に以下がある。