藤平 健先生は、千葉大学在学中に長浜善夫先生とともに、今も続く学生サークルである千葉大学東洋医学研究会を1939年に創部されました。先生は自分の経験から漢方の有効性を実感され、漢方の世界にのめりこんでいかれました。しかし、その時代は、漢方にとっても冬の時代で、大学というアカデミアの中では受け入れる素地はほとんどありませんでしたが、眼科の伊東彌惠治教授が部長をしていただけたことから道が開けたのでした。藤平先生は眼科を専門としながら、漢方も極めるという現代の漢方専門医師の原型を歩まれた方でもありました。漢方については、和田正系先生のご紹介で奥田謙藏先生の門人となり、古方派の考えを中心に据えて診療されました。その後同僚の眼科の伊藤 清夫先生、小倉 重成先生などの先生方も奥田先生に弟子入りして、生涯の仲間を形成していかれたわけです。藤平 健先生は、思うことがあってか師匠―弟子関係的な状況を嫌い、学生や駆け出しの医師の我々にも「○○さん」という呼びかけをしていただきました。まことにリベラルで、漢方の発展を望んでやまなかった方でした。我々はこの千葉大学大学院医学研究院和漢診療学の基礎を間接的に作られた中心的な一人と考えています。
ここに、千葉大学や漢方関係の研究会で多くの漢方を学ぶ医師、薬剤師、看護師、鍼灸師を育てていただいた先生の略歴を、感謝を込めて多くの人の方々にご理解いただけるよういたしました。ぜひご覧ください。
最後に、取材にご協力いただいたみなさま、特にご親族の伊藤敦之先生には秘蔵写真なども公表いただきました。ここに感謝を申し上げます。
平成26年7月吉日
千葉大学大学院医学研究院和漢診療学・並木 隆雄
1914年12月18日、藤平養三の三男として、四国香川県丸亀市に生まれる。8人きょうだい。
藤平家の本籍地は栃木県下都賀郡都賀村であり、父は眼科医で明治から昭和まで陸軍軍医を務めた職業軍人だった。宇都宮、甲府、四街道などで高級軍医を務めたほか、外地では朝鮮会寧、台湾台北など各地で勤務し、大佐相当の「陸軍一等軍医正」で定年退官した。退官後には千葉医科大学眼科学教室で研究を行い、医学博士の学位を授与されている。
藤平健は、父の赴任地の1つである歩兵第12連隊のあった丸亀市で生まれ、各地で育った。父が定年後に千葉市内で眼科医院を開業して定住したため、旧制県立千葉中学を卒業、旧制山形高校(現・山形大学)へ進学して1935年に卒業する。山形高校時代は柔道部に所属。同級生に、動物文学を確立させた直木賞作家の戸川幸夫がおり、旧制高校を舞台にした『ひかり北地に』(郁朋社、1987年)の中で、藤平は「蘭丸」というあだ名で周囲を魅了する登場人物のモデルとなっている。
1936年、千葉医科大学(現・千葉大学医学部)に入学した。1935~43年の間に、兄(二男)、姉(長女)、妹(三女)が相次いで、当時の国民病と呼ばれた肺結核で夭折。母は1945年に脳出血で倒れる(1954年没)。1940年卒業、父のたっての希望で眼科学教室に入局し、伊東彌惠治教授に師事。同年9月に、軍医を志願して大学副手・医員助手を退任し、陸軍短期予備軍医として丸亀連隊に入隊。1941年に近衛帥団東部第三部隊(近衛歩兵第二連隊)付き軍医に任官する。千葉陸軍病院(現国立千葉病院)勤務を経て、1943年、近衛帥団司令部軍医部部員となる。この間に、千葉県衛生課長から愛知県衛生課長に転勤した玉木緝熙(『醫界の鐵槌』の著者・和田啓十郎の甥)の長女、玉木正子と結婚(1942年)。1945年9月、終戦に伴って予備役編入となり復員(当時軍医大尉)。10月、眼科学教室に復帰。翌1946年、講師・医局長となる。
1950年、父が脳出血で急死したため、千葉大学を退官して家業の「藤平眼科院」(千葉市)を継ぎ、「藤平眼科」として眼科と「藤平漢方研究所」にて漢方の診療を行う。
大学1年の夏休み、父・養三が友人の薬学博士・木村雄四郎(津村順天堂研究所)からもらった『漢方と漢薬』誌3冊を読んで、漢方に開眼する。以降、漢方に関する本を読み漁るうち、漢方の原典は『傷寒論』であると思い至り、その後、生涯を通じて傷寒論の研究を行うことになる。
大学2年の1937年に肋骨カリエスに罹患するが、切除をしなくても漢方治療で治るはずと確信。『漢方と漢薬』に同疾患の治験例を発表していた長崎の鮎川静に手紙を書いたところ、千葉の富浦で開業していた和田正系(和田啓十郎の子息)を推薦され、治療を受ける。その後、和田から奥田謙藏を紹介され、煎薬(大柴胡湯加薏苡仁+桂枝茯苓丸)にて約5カ月で完治する。この治療中から奥田謙藏に師事し、和田正系らと共に漢方を学び始める。
学生時代から、優れた経験医学である漢方を少しでも多くの人に知らせたいとの思いを抱き、千葉医大全学生に配布される文芸部機関誌雑誌で同級生の長濱善夫が編集長を務める『大学文化』(第31号、1939年1月)に「日本医学への展望―漢方漫筆」を投稿し掲載された(手書き原稿は現在、大阪武田科学研究財団・杏雨書屋にある)。
大学を卒業し陸軍軍医に在職中には、閉店した生薬問屋から大量の生薬を購入し、千葉大学へ持ち込む。これが、戦後の千葉大学における東洋医学の研究に大きく寄与することになる。
1949年には、苓桂朮甘湯をめぐる「慢性軸性視神経炎の全身症状並びに関連せる全身疾患について」で医学博士号を授与される。漢方による学位授与の嚆矢である。
藤平は、漢方研究家・奥田謙藏と眼科教授・伊東彌惠治の2人を師と仰いでいた。奥田謙藏を自由講座の講演に招いた時の様子を、次のように述懐している。「奥田先生は、気ばるでもなく、臆するでもなく、淡々として漢方に神髄について話され、聴衆に感銘を与えられた。(中略)奥田先生を、まるで抱きかかえるようにして、誠心誠意、応対された伊東先生の態度は温かく、そして立派であった。素晴らしい両恩師に師事することができたこの幸運を、神様に感謝しなければならない、としみじみ思ったことであった」(『随想百味箪笥』)。
1950年、「日本東洋医学会」の設立に参画し、理事となる。1963年に日本東洋医学会第5代理事長に就任(1963~64年度)。1965年、同理事就任。1970年、日本漢方協議会(現・日本漢方協会)発足に参加。1973年、日本東洋医学会評議員に就任。1977年6月、第28回日本東洋医学会総会会頭を務める。藤平は、この日本東洋医学会総会で、毎年演題を出し続けた。
大学3年の1939年、大学内に「千葉医科大学東洋医学研究会」を長濱と共に結成。漢方が認められなかった時代だが、医史学にも造詣が深い眼科教授の伊東が会長を引き受けた。戦火によって一時休会するが、1946年、千葉医科大学眼科学講師の時、医学生の高柳欽一により「東洋医学研究会」が再興。この研究会を通じて、数多くの漢方家を育成した。なお、会長を引き受けたときは半信半疑だった伊東も次第に漢方に傾倒し、1949年に強い願望を持って「東洋医学研究所」設立趣意書を作成し文部省に提出するが、実現はしなかった。
1947年に誰でも自由に参加できるフリーな講座として、教授会での許可を得た千葉東洋医学研究会「東洋医学自由講座」を開講。当初は学外から龍野一雄らを招いて系統講義を受けていたが、やがて講師謝礼が捻出できなくなったため、運営は東医研の学生に任せ講師はボランティアというスタイルに変わり、1949年から藤平、小倉ら千葉大大学内出身者が講師を務めるようになる。ほぼ毎週、前半1時間、後半1時間の講義を、2人で行っていた。以後講師陣には、和田正系、伊藤清夫、長濱善夫、松下嘉一、鎌田慶市郎、田畑隆一郎、寺澤捷年、今田屋章、土佐寛順、中村謙介、秋葉哲生、小林三剛らが名を連ねていく。
自由講座は後に、広く一般からも聴講できる公開講座となり、現在も行われている。
(今年度:千葉大学東洋医学研究会ホームページ: http://chiba.kuronowish.com/)
藤平は後年、1人に同時に2つの薬方証が存在する併病論を展開した。
併病について『傷寒論』には2つの条文(48章、229章)が記載されており、太陽病と陽明病の併病を治療する場合は「先表後裏」が大原則とする。すなわち、併病の条件として、①両薬証が重複することと、②重複のあり方が、まだ陽明病期にかかったばかりで太陽病期に大部分が残っている場合には先表の法則、大部分が陽明病期に移っている場合には後裏の法則にて治療を行う。
これをもとに広く解釈し、太陽と陽明の二陽の併病以外の併病もあるとして、藤平は併病を次のように定義している。「併病とは、二薬方証の併存であって、その症状は、互に相関連し合っており、その治にあたっては、先後などの法則に従うものをいう」。
「潜病論」を提唱する小倉重成とは、学会等でしばしば論戦を繰り広げたが、最終的には、「慢性病における併病」が「潜証」と同様だとして妥協した。
自院の診療のほか、中将湯ビル診療所、千葉大学病院漢方外来、昌平クリニック、北里研究所などでも診療を行い、毎週木曜日は千葉大学東洋医学研究会自由講座、そのほか千葉看護専門学校、東邦大学薬学部、関東鍼灸専門学校(現学校法人関東医療学園)、千葉大学第二内科などで講義を行った。平日は診療と診療後の講義、会合。土日も講義と会合。そして、毎月最初の1週間は、軽井沢で勉学と静養にあてる生活を続けた。依頼があれば全国各地へ出向いて講演し、漢方普及のために尽くした。藤平の偉業を継承し、勉強会が発足している。また、1992年には、学校医の功労が認められ、文部大臣賞を受賞した。
藤門医林会 現在の勉強会風景
中級用講座として千葉で始めた連続講義は、松下嘉一が代表となり1981年から「健友会」として、東洋医学研究会会員以外の医師と薬剤師に向けて講義を開始した。テキストは『和訓類聚方広義』『傷寒論講義』『古方要方解説』など。当初は藤平を囲む勉強会だったが、会員が大いに増加し、賢友会と名称を改めて講義が続けられた。藤平の没後も勉強会は続けられたが、1999年に解散した。同会の傷寒論講義の録音は、テープ起こしをした中村謙介により『漢方の臨床』に掲載され、後には『傷寒論演習』として刊行されている。
藤平は国際的にも活躍し、たびたび中国へ出張していた。上海中医薬大学名誉教授(客坐教授)、北京中医薬大学名誉教授(客坐教授)などを兼任した。
1981年 | 北京中医学院にて「第1回中日傷寒論討論会」に参加。 |
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1987年 | 上海中医学院(現・上海中医薬大学)客員教授に就任(1990年まで) |
1988年 | 同専科指導教授に就任。 |
1991年 | 北京中医学院(現・北京中医薬大学)客員教授、上海中医学院名誉教授に就任。 |
1993年 | 北京中医薬大学にて「第1回アジア張仲景学説学術会議」(傷寒論学術討論会)に参加して「併病について」特別講演、1997年同大名誉教授に就任。 |
藤平は、漢方について、そして自らに対してはストイックで厳しかったが、他人とは誰にでも気さくに真心を尽くして接し、話術に長けていつも周囲を楽しませていたため、医療関係者はもとより、患者も含めて多くの人がその人柄に惹きつけられた。「先生-弟子」として権威を振りかざすことを嫌い、門弟であっても優劣はない「研究仲間」「同志」として接し、目下に対しても「さん」づけで呼んだ。
そして、酒抜きには藤平を語れないほど酒が好きで、しかもめっぽう強かった。朝まで飲み明かすことも少なくはなかったようだが、翌朝にはシャンとして診療や講義に臨んでいた。80歳を過ぎてなお、毎晩5合の晩酌を欠かさなかったという。こうした酒豪ぶりは、いまでも門弟たちの間で語りぐさとなっている。
藤平は運動が得意で、特にスキーや山歩きを好んだ(スキーでは利き手の右手を負傷したことがあり、腹診は左手で行っていた)。一方で、芸術や文学にも造詣が深かった。福田佳弘は、鳥取から千葉まで指導を受けに通っていたため、しばしば食事や酒の席に同席することが多く、二人で飲むとたびたび音楽の話に興じたという。クラシック音楽ではバロック、特にテレマンやヴィヴァルディなどが好きだったようだ。読書も好み、山本周五郎や藤沢周平の小説をよく読んでいた姿が印象に残るという。
「証にしたがう」色紙
山形高校では柔道部に所属
大学生時代(登戸にて)
後年開業した場所より
300メートルほど西方で撮影
昭和10年頃の藤平家 向かって左端が藤平健
妹・雅子(次女)と綾子(三女)
父の診療所
「藤平眼科院」の看板が見える
向かって左より、健、
兄・泰司(長男)、姉・隆(長女)
妹・彌生(五女)
応召の日、両親、妹(三女、四女)と共に
軍医として、近衛師団
(近衛歩兵第二連隊)に配属
玉木正子と結婚
父・藤平養三と母・フサ
藤平眼科の診療室を描いた水彩画(作者不詳)
福田佳弘(藤門医林会・福田整形外科医院)
鍋谷欣市(昌平クリニック)
伊藤敦之
<取材・文>兒玉由佳