白菊会へ、感謝の気持ち
崇高な精神をお持ちの先生方の力をお借りして、人体の構造について、隅々までしっかりと学ばせていただきました。二ヵ月間の解剖実習を終えて、人体への理解が格段に深まりました。今まで過ごしてきたどんなニカ月より、そしてこれからの人生で経験するどんな二ヵ月より、心に深く刻まれ、多くのことを学べた 期間になったのではないかと思います。このような場を提供して下さった先生方、その親族の方々の思いに触れ、医師とはどうあるべきなのか、そして死とは何なのかを今一度考えさせられました。
今の日本の制度では、それなりに勉強ができて、人間性に異常がなければ誰でも医学部に入学することが出来ます。だから、親が医者だからとか、なんとなくテレビで見てかっこいいと思ったからだとか、そんな軽い理由でも医師を目指すことが出来ます。僕もそんな人々の中の一員です。しかし、本当はそうあるべきではないと白菊会の人々の思いに直接触れて、改めて強く思いました。白菊会のような自己犠牲を厭わない人々の気持ちがあって今の医療が成り立っているのだから、私たちは医療に対してもっと真剣に考えなければなりません。犠牲になった人達がどのように医療に貢献したかったのかという気持ちをしっかりと汲み取り、それを自分のなかで消化し伝えていくのが、最低限の義務であり、さらに十α、つまり医療行為を付加して、多くの人々に発していくのが医師の義務なのだと考えました。
死という答えの出ない問題についても考えさせられました。脳死を代表するように死に関しては境界が未だにあいまいです。それは実習を終えても良く分かりません。ただ、どこのラインで死を定義したとしても、亡くなった後でも、出来ることがあるのだと実感しました。死は全ての終わりではない、そんなことを思いました。言い古された言葉ですが、先生方は私たちの中で生き続けています。姿、形は変わってしまったけども、思いと知識という形で私たちは先生方とともに生きていくことになると感じました。
最後に、先生方の思いは朽ちることなく私の胸に残っていくでしょう。私たちは、これから医療行為を学び実行していく間に、たくさんの挫折を味わうと思います。その際、この二ヵ月間を思い出し、先生方のお力のもとに自分がそこにいることを考え直し、諦めない姿勢を保っていこうと思います。私たちの勉強の場を提供して下さった、白菊会の皆様には本当に感謝しております。ありがとうございました。
医師への第一歩
三年生になって予定表に解剖実習という文字を見たとき、ついに解剖実習が始まるのだという緊張感と、想像もつかない授業への不安でいっぱいになったことを思い出します。最初の授業で白菊会の方々になぜ献体をしようと思ったのかというお話を聞き、今まで白菊会という名前さえ知らなかった私は大きなショックを受けました。同時に、いままで受けてきた授業のように私たち生徒と教員だけの関係に完結するものではなく、白菊会の方々をはじめとしたたくさんの人の協力があってできるという点で、講義室での授業とは全く違うものなのだということを実感しました。
実習初日はただただ初めてのことにとまどい、するべきことをなんとか終わらせることで終わったことを覚えています。しかし二回三回と実習を重ねるにつれ、始まりはスムーズになり、班員と互いに協力しながら進めることで、実習で学べることは次第に増えていきました。アトラスにのっていることはあくまで基本であり、実際は人によって違うのだということがわかってからは、なぜこの解剖実習が医師になるためにこんなにも重要だと言われているかを理解することができました。
しかし、実習が進むにつれ、一番変わっていったのは献体してくださった先生との関わり方でした。はじめは初対面で接し方が分からず緊張していた時間だったのが、解剖をしながら先生はどんな人生を歩み、どうして献体をしようと思ってくれたのだろう、私たちにどんな医師になることを望んでいるのだろうといったことを考えるようになりました。難しい回の授業では、アトラスや教科書を予習しても全然わからず、投げ出したくなるときもありました。そのとき、目の前にいる先生が生きておられたらそんな私たちを見てどう思うのだろうと考えると、まだ頑張ろうという気持ちになるのです。三ヶ月という短い時間ではありましたが、私の人生の中でこんなにも深く誰かと関わったことはありませんでした。最終日の実習前の授業で、解剖学教室の先生に、「そんなことはないのだけれども、もし先生が目をさましたら、いまのあなたたちを見てなんていうと思いますか?」と問いかけられました。私は自分のできる限りの力で解剖をしたのだろうか、もっともっとできたのかもしれないと反省する点も多かったですが、間違いなく言えるのは、解剖を終えて学年全体の雰囲気が変わったということです。医師になる、第一歩をみんなが踏み出したのだと感じました。
このような機会を与えてくださった、白菊会の会員の皆様、ご家族の方々、解剖学教室の先生、ご協力してくださったすべての方に感謝申し上げたいと思います。
ご遺体にメスを入れる資格
白菊会の皆様、今回は千葉大学の肉眼解剖学実習にあたり、ご献体をして頂いたことを心より感謝させていただきます。
私は二年前に、この千葉大学医学部に入学しました。入ってすぐに、三年生やそれ以上の先輩に解剖は本当に大変だから、覚悟しておけと言われました。もち
ろん、それだけではなく、医学部で受けた授業の中で、他のどんな科目よりも、勉強になったとも言われました。だから私は、 一年生の時から、この肉眼解剖学実習をずっと心待ちにしていました。
三年になって、森教授や小宮山先生の授業を受け、とうとう実習の日が来ました。
実際ご遺体を目の前にすると、非常に緊張しました。先生に、切皮をしろと言われた時、本当に僕がこの方にメスを入れていいのか、その資格があるのかと、
考えさせられました。僕は、生半可な気持ちで医師になろうと決意したわけではありません。この時、自分が医師になろうと決意した気持ちを強く、再確認させ
られました。
私の班は、真面目な人が多く、一緒に解剖を進めていく上で、とてもやり易かったです。一緒に同じご遺体を解剖した仲間として、これからも仲良く、そして、切磋琢磨していきたいと思います。また、私達の解剖をサポートしてくれた、森教授、小宮山先生をはじめとする先生方にも非常に感謝しています。私達の質問に対して、嫌な顔一つせず、私達が理解、納得するまで、真摯に教えて下さいました。
私の班のご遺体の方は、非常に肉付きが良く、筋肉の発達した方でした。なので、とても人体の構造を理解する上で、分かりやすく、他の班員達も、私達の班
に来て、確認していることも多々ありました。名前も、どのような人生を歩んだのかも知ることはできませんが、自分達が解剖させていただいたご遺体の方のこ
とを、一生忘れることはないと思います。
私が、この肉眼解剖実習で非常に後悔していることが一つだけあります。期末テストで、小宮山先生が、私の班で一生懸命教えてくれた問題を、注意力不足の
ミスで間違えてしまったことです。これは私にとって、医師の道を歩む上で、一生忘れてはいけないミスだと胸に刻んでいます。現在、患者の取り違えや、手術
部位の左右の間違えなど、ニュースになっている以外にも、たくさんあると思います。私は、今回のミスを通じて、医師として働く上で、注意力、集中力を切らすということはしてはならないということを絶対に忘れない、忘れてはいけないと思いました。
実際に、肉眼解剖学実習を終えてみて、私に、それをやる資格があったのか。その資格というものは、医学部の入学試験に合格したからといって、自動的に得られるものではないと思う。将来自分が医師として、患者さんを救いたい。そのために、勉強したいという気持ちが、その資格なのではないだろうか。私は自分に、それを伝えてくれた先輩のように、これから、解剖学実習をやる後輩達に伝えていきたい。
名も知らぬ先生から学んだこと
私たちが初対面の人と話すとき、まず社交辞令として名前を確認しあう。時には一度で覚えられないこともあるが、たいていの場合、名前というのはその人を表す上で一番の名称であろう。
今回、解剖させていただいたご遺体の先生の名前を私は知らない。しかし、二ヶ月半という期間で私は名前も知らぬ先生から本当に多くのことを学んだ。解剖実習ガイダンス時にビデオで見た「つらい時、ご遺体の先生が『がんばれ』と励ましてくれる」というのを追体験することもできた。
部活の試合などで他大の医学部生と話すと、同学年の友達が二年生までに解剖実習をこなしていることを知る。「とにかく大変」「やりがいがある」「今までの授業とは全然違う」という感想を聞くたび、期待と少しの不安が織り交ざった気持ちを抱えていた。予習とまではいかないが、今までに右足の前距勝靭帯損傷、右ひざの半月板損傷を患ったことがあるので、それらがどんな形状でどんな働きをするのか興味があった。
いざ、実習が始まると二年生とは比べ物にならないほどのスケジュールに苦しい時もあったが、慣れてくると苦痛よりもむしろ毎日新しいことを学べることの充実感が勝っていった。日に日に医者に近付いているという実感がたしかにあった。
今、実習が終わって、少し反省する余裕が出てきたところでこの二ヶ月半を振り返ると、たしかにこれらの感想はその通りだと思う。ただ、私の心に強く残っ
たのは「ご献体なさった方々に代わって学生の君たちにありがとうと言いたい」という白菊会の方々のお話である。この言葉はガイダンスと懇親会で二回耳にする機会があったが、私が二つの決意を抱くきっかけとなった。
最初のガイダンスで聞いた時、まず感謝するのは我々ではないか、と考えた。そしてその理由を聞くうちにご遺体の先生のお気持ちに精いっぱいこたえられる様、自分にできることはすべてやろうという決意を固めた。納棺式後の懇親会で再びお話を聞いた時、解剖実習が終わってご遺体の先生からもう学ぶことはない、ではなく今回学んだことを基盤に、今後一層の努力を重ねて一人前の医者になることが私にできる恩返しだと思った。何年先になっても、この決意を忘れることはないと思う。
最後に、今回のような機会を与えてくださったご遺体の先生、環境生命医学教室のスタッフの先生方、白菊会の方々にこの場を借りて感謝申し上げたいと思う。どうもありがとうございました。
笑みと遺品
二ヶ月半の肉眼解剖実習を終えた今、どの実習も大切で印象深いものだったが、中でも鮮明に記憶に残っているのは、ご遺体の先生との対面と、納棺である。
白菊会の方々のお話を伺い、気持ちの引き締まった私を出迎えてくれたのは、とてもおだやかな笑みを浮かべたご遺体の先生だった。まるで「頑張れ」と言っ
てくださっているかのようだった。自らの肉体と引き換えに、私たち医学生に勉強の場を与えてくださっているご遺体の先生に、感謝の気持ちでいっぱいになっ
た。
二ヶ月半の間、毎日実習のための勉強に追われ、時には辛いときもあった。でも、どんなに教科書や参考書を読んでもわからなかったことがご遺体の先生でとてもわかりやすく学べたり、また学んできたことを実習に活かせたりすると、とても楽しかった。日々自分の知識が増えていっているのがわかって、これも全てご遺体の先生のおかげだと思った。何もかも学び尽くさないと、ご遺体の先生に失礼なので、全力で実習に臨んだ。私たちの班は十九時や二十時まで残って実習をしていた。それだけたくさんの時間をご遺体の先生と過ごし、たくさんのことを、ご遺体の先生から学んだ。
実習をこんなに有意義に過ごせたのは、最初に対面したときのご遺体の先生の表情が最後まで忘れられなかったからだと思っている。今でももちろん覚えている。将来私は医師になって社会に出て、たくさんの患者さんに出会い、そして看取ることになるだろう。それでもやはり、初めて解剖させていただいたご遺体の先生の、始めて対面したときのあの笑みは絶対に忘れられない。
納棺のとき、初めてご遺体の先生の棺と遺品を目にした。その瞬間、「生」と「死」が結び合わさって、生前の姿が目の前に浮かんできた。私たちと同じように呼吸をし、食べ、飲み、歩き、生きていたご遺体の先生。私たちにとっては先生であり、ご遺族にとっては大切な家族であるご遺体の先生。使い古された杖や老眼鏡を手にしたとき、ここに詰まった故人の一生を、またこれらを託したご遺族の気持ちを、全て背負えるくらい私はこの実習に全力を注げたか、自問した。そして、自信を持って、ご遺体の先生とご遺族の方々にこう言えると思った。
本当にありがとうございました。必ず、立派な医師になります。
ご遺体の先生の生
約三か月の解剖学実習が終わった。非常に濃い日々を過ごした。納棺式の日、これまで勉強の機会を与えてくださったご遺体の先生方とはもう会えないのだ、と気づき、名残り惜しくなるとともに、ご遺体の先生方が私たち学生に伝えたかった思いを改めて強く感じた。私はその思いに応えることができたのか?柔和な笑顔のご遺体の先生は、教科書よりも、大学の先生よりも、いかにして医師であるべきか、を無言ながらも心に問いかけてくる偉大な先生だった。これから医師として生きてゆく人生のなかでも、きっと何度もこの先生の問いかけを思い出すのだろう。
四月、解剖実習が始まる日、白菊会の方から、貴重なお話や激励の言葉を受けた。その話の中ではっとさせられた所があった。それは、「亡くなった後にご遺体の先生方になれることを嬉しく思います。成願なのです。」という白菊会の方の言葉だった。私は医師になろうとしているが、死が怖い。誰しもに死は訪れるが、その先は未知だからだ。そのような死を前にしてなお、世のため、医学の進歩のために、と献体の決意を固めるのはどんなにすごい事なのか、白菊会の方々の大きな人間性を感じた。私たちがこれから臨む解剖実習はご遺体の先生、そしてご遺族の方々の重い決意を背負っているのだ、と深く心に刻んで実習へと向かった。
初めての実習の夜、軽い疲れを覚えながら白菊会の会報をめくっていた。読みながら、今日初めて対面した先生の顔、皮膚の感触が思い出された。ふと、目に留まったページがあつた。成願者名簿のページだった。ずらりと成願された方々の名前がのっている。なんとなく名前を目で追っていたら、涙があふれてきてしまった。私たち学生にはご遺体の先生に関する個人情報は一切与えられない。わかるのは直接の死因となった病気だけだ。だから、今日対面したご遺体の先生の名前もわからない。けれども、その方は長い人生を歩んできて、結婚して子供も孫もいるのかもしれない、つらい経験も楽しい思い出もたくさんあっただろう、と同じ一人の人間として、それぞれの歩んできた道に思いを馳せると涙が止まらなかった。
その後の実習でも、死因とは別の病気が見つかったり、人工関節が見つかったりするたびに、この先生は痛くなかったのだろうか、歩きにくかったのではないだろうか、などと、先生の生前の生活をたびたび案じた。ご遺体の先生は圧倒的な印象をもって私たちに人体の緻密さ、しくみの複雑さと生きていることの神秘を教えてくださった。
私は始め、解剖学実習を前にして死を思った。しかし、回を重ねるにつれ、私たちは死に向かっているのではなくて、生を精一杯生きているのだな、と感じるようになった。
この先医師になってもこの解剖学実習でご遺体の先生から学んだこと、考えたことをずっと忘れずに患者さんに向き合っていきたい。
ありがとうございました。
第八十二回解剖慰霊祭 感謝の言葉 医学部三年生代表
ご遺体の先生。わたくしたちは実習の間、そう呼ばせていただいていました。今日もそう呼ばせてください。先生と、先生のご遺族の皆さま方に、学生を代表いたしまして一言感謝の言葉を述べさせていただきます。
わたくしたち学生は、この3ヶ月の実習を通して本当にたくさんのことを学ばせていただきました。実習前のわたくしたちと、今ここにいるわたくしたちはまるで別人のようです。
初めてご遺体の先生と対面したときのことは忘れられません。緊迫した空気、誰もがじっと押し黙っていました。不安のあまりうまく眠れなかった学生や、食事をとれなかった学生もいました。しかし、そんなわたくしたちに対して、ご遺体の先生はとても優しく美しく、思わず手を合わせたくなってしまうような、そんな崇高さがありました。本当にきれいなお体でした。
どのような想いで献体してくださったのだろう…そう考えたときから、皆さまに育てていただいているのだと強く意識するようになりました。ご遺体の先生や、ご遺族の方々をはじめとするたくさんの方々のご理解とお気持ちの上で勉強させていただいているのだ。そう思うと、あれだけ強かった不安もおさまり、すっと前に進めるような気がしました。必死で色々なことを学ばせていただかなくては。そう決心しました。
先生がそのお体をもって教えてくださったことは、今も脳裏に焼き付いています。人間の体は驚くほど精巧で、鮮やかで美しく、複雑にかみあっていました。この先さまざまな病気や治療の勉強をしていくことになりますが、どのような勉強をしているときも、わたくしたちはわたくしたちの先生のお体を思い浮かべ続けると思います。
そしてまたわたくしたちは、この実習を通して精神的にも大変大きく成長でき、医療者になるのだという強い覚悟ができました。ご遺体の先生と過ごした3ヶ月間、人間というもの、そして生きるということに、深く深く向き合うことができました。ただ単に先生のお体をみさせていただいただけではなく、お体に刻まれた、確かに生きていらしたという証を感じとることができました。そして、そういった全てが、先生の全てが大切に思えてなりませんでした。
納棺させていただいたとき、寂しくて、悲しくて、そして感謝の思いで胸がいっぱいになり、泣きそうになってしまいました。それほどまでにご遺体の先生は、わたくしたちにとってとても大きな存在になっていました。そしてそのとき、先生のご遺族の方々や、先生の人生に関わってこられたたくさんの方々の存在が身にしみました。ご遺体の先生も、先生をとりまくたくさんの方々も、そして勉強させていただいているわたくしたちも、みな同じ人間でした。医療は病気を診るのではない、患者さんを「みる」のだ。患者さんの世界にかかわるのだ。頭ではわかっていたつもりでしたが、その理解がいかに浅かったか思い知りました。医療は人間が人間と関わる仕事なのだと改めて認識し、そのことをとても誇りに思いました。
まだ医学部の勉強は始まったばかりです。医療のかかえる問題・ジレンマはあまりにも膨大で、そういったものに触れるたびに自分たちの無力さを思い知り、自信をなくしてしまうこともあります。でも、それでも、とにかく、とにかく努力しつづけなくては。そう強く思います。一人の人間として仲間たちと協力しながら、そして社会のたくさんの方々に支えていただきながら、患者さんと、その世界を大切にしていきたい。そんな医療者になりたい。そのために、必死で努力しつづけます。今ここで、わたくしたちの大切なご遺体の先生と、ご遺族の方々の前で、そのことを誓います。
最後になりましたが、本当にたくさんのことを教えてくださったご遺体の先生、先生のお帰りをずっと待っていてくださったご遺族の方々、そしてこの実習に関わってくださった全ての方々に、心から感謝したいと思います。
先生、これからはどうかご家族の皆さまのもとで、安らかにお眠りください。本当にありがとうございました。
つたない言葉ではございますが、これをもって感謝の言葉とさせていただきます。
一番の〝先生〟
肉眼解剖学の実習を終えて、私が強く感じていることは、「自分が将来医師になる身である」という実感、責任、そして何よりも感謝でした。
医学部の三年生の現在に至るまで、大学のカリキュラムで生化学や組織学などを勉強してきました。しかし、肉眼解剖を終えた今思い返すと、今までの私はどこか受験勉強と同じような気持ちで勉強に臨んでいる部分が強かったように思います。医学を勉強しているにも関わらず、覚えることや課題をこなすことばかり一
生懸命になってしまっていて、どうしてそれを勉強しなければならないのか、なぜ今私はそれを勉強しているのか、という本来基盤となっているべき思いが足り
ませんでした。どこか机上の空論のように、ノートや教科書の上での出来事ととらえてしまつていたのです。
しかし、肉眼解剖学が始まると、そういった根本的なことを考えるようになりました。はじめは、本格的な実習を嬉しく思う気持ちでしたが、白菊会の方々の話をきき、実際に解剖実習室でご献体と向き合うと、そのような気持ちよりも、まずは疑間が多く湧いてきました。「このご献体の方は生前どのような人だったのだろうか。どのような気持ちでご献体なさったのか」と、ご献体された方の気持ちや人生を想像するうち、「自分は将来医師になる身なのだ、ノートや教科書のような知識とだけでなく、自分と同じ、気持ちを持った人間を相手にするのだ」と、情けない話ですが、ようやく私は気づくことができました。
また、ご献体の方に初めてメスを入れたとき、私はもう一つの衝撃を受けました。少しの力しか入れなかったつもりでも、ざっくりと切れてしまったのです。
初めてだから力加減がわからなかったという驚きでなく、「こんなにも容易く切れてしまうのか、自分はこの恐ろしく切れるメスを握る立場に立つのか」という
衝撃でした。もちろん、医学部を志したときから、例えば様々な手術で人命を救う医師に憧れていました。しかし、「手術」や「メスで切る」と一言で発音でき
る作業が、どれだけの責任、知識、覚悟が必要なことなのかということを突き付けられました。
そして解剖実習を終えた今、私が一番強く感じるのは感謝です。この実習を通して膨大な知識や情報、経験を得ることができましたが、それは偏にご献体くだ
さった方々のお気持ちのもと、得ることができたのだと強く感じました。今まで多くの授業を受けてきましたが、その多くの先生の中で、知識だけでなく、前述
したような様々なことを教えて下さった一番の先生が、今回私が解剖させて戴いたご献体の方でした。
解剖実習のほかにも様々な授業や実習がありますが、医学の勉強に対する意識が変わったように思います。例えば、組織学実習で顕微鏡を使って組織を観察するなら、それを与えて下さった方のことを、症例の写真を見るときは、その写真をとらせて下さった患者の方のことを考えるようになりました。医師になるために、日々医学部で当たり前に行っている勉強は、多くの方々の協力と御好意のもとに成り立っていることを意識するようになり、何か知識を一つ覚えるにも、勉強への身の入り方が変わったように思います。
多くの知識や経験だけでなく、将来医師になる身としての自覚や責任、使命感、そして感謝と敬意といった、机の上の勉強だけでは到底手に入らないものを得ることができた解剖実習という機会を嬉しく思い、それを教えてくださった〝先生″にただ敬意と感謝を覚えます。本当にありがとうございました。
第二十九回千葉白菊会総会 感謝の言葉 医学部三年生代表
平成二十二年度の三ヶ月にわたる解剖実習を無事終了できましたことをまずご報告いたします。献体をしてくださった方々、そのご遺族、白菊会会員の皆様に、千葉大学医学部三年生を代表いたしまして、感謝の意を表したいと思います。本当にありがとうございました。
解剖実習は、医学部に入学し、医師を志す私達にとって、初めて人間そして人間の命に触れるものであるのと同時に、自分が本当に医師になるのだということを、初めて強く認識するものでありました。
三カ月の実習期間、その毎回の実習で、私達は人間の体のさまざまな構造を学びながら、その非常に緻密かつ精巧なつくりに魅了され、心を奪われました。教科書とまったく一緒というものなど人間の体には本当は存在せず、性格や表情と同じように体の中の血管・神経・筋肉までもがそれぞれ一人ひとりの個性を持つということがわかり、目に映るもの全てが大変貴重な学習でした。
もちろん、この解剖実習で得られたのは、人体の構造といった医学的な知識だけではありません。先に述べましたように、人間の体にじかに触れることで、自分が医師になるということを初めて強く認識しました。また、長年の生命によって作り出された大切な構造をひとつひとつ解きほぐし、切り開いていくうちに、医療という行為が、そこに「治療」という大義名分があろうと、どれだけ責任を伴うものであるのか、命を扱うことがどれだけ重いことであるのかということがだんだんとわかってきました。実習が進むにつれ、ひとつひとつの手際は良くなるものの、果たして自分は立派な医師になれるのだろうか、そして、それを希望し献体をしてくださった方の崇高な志にきちんと報いることができているのだろうかと、自問自答する日々が続きました。正直、自信などかけらも無く、不安で仕方ありませんでした。しかし、大切なお体を私達にゆだねてくださった、ご遺体の先生のそのお姿に心の底から勇気づけられ、まずは勉強させていただいていることに感謝し、一生懸命努力しなければと自らを奮い立たせました。
最終日、ご遺体を棺に納めました。最後の黙祷の号令がかかると、ずっと私達を見守り、自らの大切なお体と生き方をもって私達を育てて下さったご遺体の先生への感謝の思いや、もう会えないという寂しさ、悲しさで胸がいっぱいになりました。困難な実習を最後までやり遂げることができた達成感も確かにありましたが、「これで本当に終わってしまうのか。果たして自分は本当に自分の出来る限りを尽くせたのだろうか。」という思いも心のどこかにありました。実習期間が終わったからといって、完結させてしまうのではなく、これからも常に自らを省み、自分を磨き続けなければいけないと自覚しております。
私達医学生は、この解剖実習を通して学んだ「命」というものの重み、そして私達が担っている使命を認識し、それに応えられるように日々努力をしていかなければならないと思っています。それが、献体された故人の方々への最大の恩返しになると考えています。
最後に故人のご冥福をお祈りいたしますとともに、重ねて感謝の意を述べたいと思います。本当にありがとうございました。
ありがとう。
「ありがとう。」と言いたいです。
解剖学実習の説明会において、白菊会の会員の方がおっしゃったその言葉は私の心を大きく揺さぶりました。献体することによって、死してなお世の中のお役に立つことができる。こんな嬉しいことはないのだと、その方はおっしゃいました。
実習が始まるに当り、私は複雑な思いで説明会の日を迎えました。それは人の身体を解剖することに対する畏怖と不安の念であり、勉強の機会を与えてくださったことへの感謝と責任の重さでした。感情が渦のように時々刻々と変化して高ぶり、説明会の前日はあまり寝付けなかったのを覚えています。
「ありがとう。」と新鮮な響きをもって、私に届きました。それはあまりにも意外な言葉でした。あっと心の中で声がはじけました。前日に私が感じていたものは、全て私の側からのみ物事を捉えた結果生じた感情だったのだと気づきました。白菊会の方は医学部の学生のためだけに献体してくださっているのではない。将来の医療の発展のために、自分自身のために、感謝を形にするために、各々の人が生きてきた軌跡の碑として、その道中で得た感謝と達した境地を形にしたのが献体なのかもしれない、と感じました。
さて、二ヶ月半に亘る実習を通して私はご遺体の先生のご遺志に副うことが出来たのでしょうか。私たちは先生の名前も、生前の人柄もご遺志も知ることは出来ません。先生がどのように生き、どのような思いをもって千葉白菊会への登録を決意されたのか。この二ヶ月半、先生のご遺志に副うということの答えを自分なりに探してきました。実習が終了した今、共に医療に貢献して行くこと、この三ヶ月間という時間を決して忘れないことが、その答えの一部だと感じています。
納棺の際、私が最後に先生にお伝えした言葉もやはり「ありがとうございました。」でした。それは説明会の前日に感じていた感謝よりも、遙かに重厚で様々な思いの縒り合わさった言葉でした。私はこの言葉に、先生のご遺志と共に医療に貢献していくことを約束しました。
医師としての素養を学ぶ
この三ヶ月間、肉眼解剖学という科目の中で実習に従事してきたが、実際に学んだ内容は解剖学の範疇をはるかに超えるものであった。実習に先立つガイダンスで「我々がこれから行う実習は、人体にメスを入れハサミで切るという、一つ間違えれば罪になるものである。」という言葉を聞いて緊張感を覚えたが、それでもなお「困ったら教科書を見直して、講師の先生方に教えて頂こう。」という受動的な姿勢であった。
しかし最初にメスを入れると、手が止まってしまった。あると予測していた場所に血管や神経が見つからないのである。教科書を見直しこの先にあるはずだと考えながら手順を進めたが見つからず、諦めざるを得なかった。その後も図譜通りの位置関係にない血管や想像よりはるかに薄い膜などを見て、人体の構造の繊細さや多様性に驚きつつこの後の実習に対する不安も感じた。実習を終えて復習をしていると自身が執刀医として手術に臨む光景が浮かび、同時に実習の中で狼狽している自分も思い起こされた。
私はこれからの実習にどのような姿勢で臨むべきなのか、改めて考えた。実習の中で起こる「教科書とは違う事」は実際の手術中にも起こる。そして「見つからないため諦める」というのは手術の中止を意味し、患者は最悪の場合死に至る。医師がそのような姿勢でいることはあってはならない。この実習は解剖学の知識を得るだけでなく、想定外の状況に対応する力や適切な思考など「医師としての素養」を学ぶ貴重な機会であるという結論に至り、実習に対する姿勢を改める必要性を痛感した。
その後の実習でも困難な状況が生まれたが、班の仲間とその度に助け合った。探している組織が見つからない時は全員で図譜や教科書を見ながら話し合い、できる限りそれを同定する。行程の進みが早く混乱してしまった時は立ち止まって復習し知識を全員で共有する。モチベーションが揃わない時でもコミュニケーションをとって足並みを揃える。毎実習で達成する事は難しかったが、班が一つの「医療チーム」として活動することができたと思う。
そして最も大切なのは、これらの事を教えてくださったご遺体の先生という存在である。人体の構造に関する知識やその多様性に始まり、医師になる上で持つ
べき倫理観や姿勢、理想的なチーム医療のあり方やそれらを実現するために自身がなすべき事、数え切れないほど多くのことを教えていただいた。かけがえのない教えを通じて私に医師への道を開いてくださった先生に心から敬意を表し、思いを新たにしてその道を進んでいこうと思う。
六月中旬、二ヶ月半におよぶ解剖学実習が終わった。このあまりにも貴重な体験を振り返ってみたいと思う。四月、三年生に無事進級できたことに安心すると同時に、ついにこの時が来たのだと緊張もした。入学してからずっと、三年生になったら解剖学実習があると先輩方から聞かされていたし、いつもは冗談を言い合えるような先輩もこの解剖学実習に対してはとても真剣な姿勢で臨んでいたからである。四月十四日月曜日の午後、この日が初めてご遺体と対面した日だった。実習が始まる前に森教授と千葉白菊会の方々から様々なお話があり、あらためてどのような姿勢で臨まなくてはならないのかを再確認した。そして数年前、もしくは去年この場にいらっしゃった方々と自分たちが実習で対面するかもしれないのだということを考えると、私たちの勉強のために献体下さった方々、ご遺族の方々には深く頭が下がる思いだった。
初めてご遺体と対面した時、やはり不思議な感じはしたが、解剖を進めていくとついこの間までは生きていらっしゃったのだと、様々な思いや実感が自分に流
れ込んでくるようだった。ご遺体の背腹を返す時に感じる重さなどは、やはり一人の人として何十年も生きてきた重さを感じた。五月、自分を含めて周りの顔にも疲れた様子が見られるようになってきた。毎回の実習に向けて実習書とアトラスを併用した予習、遅くまでかかる実習がずっと続いていたし、何よりも今までに感じたことのない厳かな空気がそこにはあったからである。みんな無言で実習に向き合っているというわけではない。むしろ分からないことがあったらすぐに先生方に聞けるし先生方も熱心に教えて下さるという環境だった。ご遺体とわたしたちの間にある見えない思いのやりとりが、この厳かな空気の正体であったように思う。
疲労の色が見えてきた五月に実家で母から、実は祖父(母の父)も献体していたのだと聞いて衝撃を受けた。あまりにも身近にいたのだ。今になるまで母からは何も聞かされてこなかった。母としても様々な思いがあったとは思うが、私は医学生として、祖父を誇りに思いたい。遠く離れた九州の地で、今は医師として 働いているだろう元医学生たちのために献体したのだ。どのような思いだったのかは分からないが、戦争のせいで医師になりたくてもなれなかった祖母のことが頭にはあったのかもしれない。
もう終わってしまった解剖学実習だが、ご遺体の思いや願いは医師になるまでも、医師になった後もずっと抱いていきたい。
第八十五回解剖慰霊祭 感謝の言葉 医学部三年生代表
始めに、平成24年度の解剖学実習が無事に終了したことをここにご報告いたしますとともに、自らのお体を提供してくださったご献体の先生方、ご遺骨がお帰りになるのを長くお待ちいただいたご遺族の方々、そして白菊会の方々や関係者の方々に対して、心から感謝を申し上げます。
解剖実習が始まった際は、今までの講義で感じたことのないくらいに大変に緊張したのをよく覚えています。特に、初日の最初の一刀目が最も緊張しました。安らかな顔で眠っていらっしゃるご献体の先生にメスを入れる事は、覚悟はしていても、尋常な気持ちではできませんでした。実習を開始する際に全員でご献体の先生に感謝の祈りをささげた後、しばらくは戸惑っていましたが「切るんだ、切って学ばせて頂くんだ」と自分に言い聞かせてメスを握りました。それからも毎回の黙とうのたびに、私はご献体の先生に対し様々な思いを馳せていました。「この方はもともとは情も心もある1人の人間で、生前は何十年ぶんの人生があって、様々な人間関係があって、仕事があって家庭があって……」といったことを考え始めると、実習を進める手が止まってしまいました。私は、相手が人間だと思ったら、切れなかったように思います。実習の時間中は「医師になるために必要なことなのだ」と自分に言い聞かせて解剖を進めていました。そのための気持ちの切り替えの時間が、謝罪と感謝の時間が、私にとって毎回の黙とうであったように思います。
我が身を振り返ると、解剖実習からまだまだ学び切れていない事がたくさんあるのではないだろうかと感じています。実習中、ご献体の先生が生前に抱えていた病巣を発見した事がありましたが、医学生物学的な考察も不十分で、心理社会的な背景も知ることのできない自分が申し訳なくなりました。しかし解剖実習を終えた後、自分の確かな成長を感じられる機会がありました。私たちはカリキュラムの一環として千葉大学病院の研究室に配属されておりますが、2年生の時はドクターたちの会話に全くついていけなかったにも関わらず、解剖実習の後はその内容が大きく理解できるようになりました。たった2ヶ月半でここまで身につくのかと深い喜びを感じるとともに、ご献体の先生への感謝の気持ちがこみ上げてきました。
また実習をしながら、どうしてご献体の先生方や白菊会の方々が献体を志願されたのかを考えていました。私は、皆様の篤志の精神は勿論の事ですが、それだけでなく心を通わせることのできる、信頼できる医療者と巡り合えたからではないか、と考えました。「こういう医師が育ってくれるなら」と思えるようなすばらしい医師に巡り合えたから、ご献体を決意される方も多いのではないかと思いました。…果たして自分は、そのような立派な医療者になれるだろうかと自問自答することがあります。私は、4月に解剖実習のガイダンスで見せていただいた白菊会の紹介映像のように、患者さんと心を通わせながら医学という分野に在りたいと考えています。知識だけでなく、一人の人間として向き合おう、相手の背景まで考えようという姿勢を通して初めて人と人との信頼が生まれるのだと思います。忙しい業務の中でそんなものは綺麗ごとだと笑われるかもしれませんが、今回の実習を通して、実際にそうした信頼関係を築き患者さんの健康を増進してきた先輩医師たちに恥じない医療者になりたいと思いました。
私たちは解剖実習を経て、人体の細部に至る構造や形態学を学びました。また少しずつではあっても自分が成長している事、そのための機会をたくさんの方々が下さり、励ましてくださっている事を感じました。感謝の気持ちを忘れずに、これからも研鑽を積み重ね、立派な医師になれるよう精一杯努力していきたいと思います。
最後になりますが、故人の方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、ご献体の先生方、並びにご遺族の皆様に対し、学年を代表し改めて感謝の意を述べさせていただきたいと思います。本当にありがとうございました。
初心を思い出した解剖実習
今回、解剖実習を通して一番に感じたことは、初心を思い出すことができたということです。大学に入ってから、医学生連盟のスタツフになってみたり、研究
室に通ってみたりと、ただ自分のやりたいことがなにか、自分がどういう形で社会に貢献することができるのか、という ことを考えるためにいろいろな経験を積もうと半ば焦りながら考えていました。そんな中で解剖実習が始まり、最初は戸惑いが大きかったです。ただ無条件・無報酬で献体してくださった先生に応える
ために必死で勉強しなければという思いがありました。
実習を終えたときに自分は何を感じることができるだろう、先生に応えることができるだろうかという不安をずっと持っていました。そんな中、実習も後半にさしかかったころ、班員のひとりが子宮を見て「みんなここから生まれたんだよね…」とつぶやきました。それまでただ必死に手を動かしていた私達ですが、その言葉にはっとしてそれぞれ想いをめぐらせました。それは私にとって純粋に生命の不思議さと尊さを直感的に感じた瞬間でした。「いま目の前にいらっしゃるご遺体の先生はどんな人生を送ってきたんだろうか」「先生のお子さんはどんな気持ちで送り出したのだろうか」という思いにはじまって、「いま自分がこうして生きていられるのはとても不思議で神秘的なことだLたくさんの人に支えられているのだ」という根本的なことをはっと思い出させられました。
思い返してみると私が医師を目指しはじめた本当に最初のきっかけは、ただ命は不思議だという思いからでした。大好きだった曽祖父と伯父が亡くなった直後
に弟が生まれ、小さいながらにそれが不思議でなりませんでした。またその弟が生死をさまよう経験をするのを目の当たりにして、命とは、本当に奇跡的なもの
だということを実感しました。命は人間の力では動かせないなにか大きなもので、でも消えてしまうもの。だから尊いし、人は必死で支えあわなければ生きられない…ということが自然に心に浮かびました。その驚きが医師を目指すきっかけでした。
ご遺体の先生はその初心を私に思い出させてくださいました。その命をもって語りかけて下さいました。相手の命を目の前にして、命の不思議さと尊さを感じ
る、命の呼応のようなものでした。それはとてもあたたかい気持ちになるものでした。うまく言葉にできませんが、お互いの命を感じあうこと、命の呼応というのがあたたかい医療の姿なのではないかと思いました。そしてそれを感じ取るためには自分の感度を磨かなければならないのだと感じました。そのためにいま自
分がやっている活動は間違ってはいないのだという自信も持つことができました。
先生の気持ちに応えるためにも、いまできることをやらなければ、自分がやっていることを誇りをもって先生に伝えられるような形にしなければと気が引き締まりました。献体をしてくださった先生方のご冥福をお祈りして、これから先生方のお気持ちに応えられるよう、学びつづけていくことを改めて誓いたいと思います。
肉眼解剖実習を終えて
二ヶ月半に渡った解剖実習は、納棺式を終えた今振り返ってみるとあっという間だったが、毎回の実習を鮮明に思い出せるほどに密度の濃い充実した時間を過ごした。
入学した当初からというよりむしろ医学部に行きたいと決めたときから、恥ずかしながら、私はこの解剖実習という授業に漠然とした恐怖を感じていた。亡くなった方の姿を見たこともない私が、ご遺体を前にしてメスを入れることができるのか、非常に不安だった。しかし、医学部の授業を受ける中で、実際の正常構造を見てみたいという知的好奇心を抱くようになり、小さな期待と大きな不安を胸に実習初日を迎えた。初めて実習室に入りご遺体の先生の姿を拝見した時、この方にも家族がおられ、友人がおられ、立派に人生を歩んでこられたのだと思うと、ふっと涙が浮かびそうになった。身体の細さや手術の跡からも、生前の先生に思いを馳せずにはいられなかった。しかし、直前のガイダンスで伺った白菊会の方のお話しの中の、「皆さんに感謝しています」という言葉を思い出すと、不思議なことに不安や恐怖は吹き飛んだ。死してなお人の役に立つべく、献体という選択をなさった先生の崇高な意志を絶対に無駄にしてはならないという強い決意を持って、先生にメスを入れさせていただいた。
実習が始まると、毎回の剖出する課題をこなすことにただただ必死で、集中したままあっという間に何時間も経過しており、肉体的にも精神的にも決して容易なものではなかったが、それ以上にアトラスを見るだけではわからなかったことが三次元的な理解を伴うようになり、毎回が新鮮な驚きと発見に満ちていた。そして何よりも、繊細かつ複雑な人体の神秘的な構造に驚嘆せずにはいられなかった。
科学技術が進歩しつつある現在、解剖実習もそのうち3Dプリンターで作成した模型でできるのではないか、と周囲の人に言われたことがある。しかし私は、いくら技術が発達してもそのようになってはならないと思う。実際のご遺体を目の前に学ぶことは、どんなに精巧な模型でも再現することはできないからである。お一人おひとりの微妙な体のつくりの違いはもとより、自分と同じようにこの世を生きてこられた方を解剖させていただくという深い感謝の念を持ち、そのお体のすべてから学ばせていただくこと、そして自分ひとりの力で医師になるのではないのだと自覚することがこの肉眼解剖実習であるといえるのではないか。
一人前の医師になるまでの道のりはまだまだ遠く、ようやくスタート地点に立ったところである。解剖実習はひとつの通過地点に過ぎないかもしれないが、ここで学んだことは間違いなく今後の人生に生かされていくだろう。支え、育ててくれる周囲の存在を心に留め、謙虚に、そして期待に応えるべくひたむきに、これからも精進していきたい。
人と身体の関係
私にとって今回の解剖実習で最も考えたことは、人というものと体の関係であった。
例えば、一般的には人の存在の終わりである死は、人の生体反応がすべて止まった時とされている。しかし、解剖実習を受ける前、このようなとらえ方に私は納得がいっていなかった。解剖実習で勉強させていただく先生のご遺体は人ではないことになってしまう。しかしそのようなとらえ方は感覚的に受け入れられなかった。そして実習前に養老猛司氏の本や身心問題という本を読んだところ、詳しく突き詰めると体と命は二つに分けて考えることがむしろふさわしくないものであるといったことや、命は一般的に死といわれる瞬間にパタッとなくなるものではなく、死に向かっていく過程から死の瞬間、その後のお葬式などを通して徐々に終わりを受け入れていくものだということ、人は亡くなってご遺体となったあとも人であり周りはそのように接しなければならないし自分が遺体になった後にも責任をもたなければならない(葬儀の方法、献体など)、という考えを学んだ。漠然と当たり前だと思いながら疑問を持っていたことが少し解消された。
そして実際に実習が始まった。対面した先生は圧倒的に人であった。そして最初のメスを入れたとき、自分がたとえ勉強や治療のためとはいえ人の体を傷つけるという異様な行為をしていく人間になってしまった、一線を越えて普通の感覚には戻れなくなってしまったと感じた。その後も実習は続いていったが、私はことあるごとに先生の顔を見たり、ご遺体の向きを変えるときなどは心の中で声をかけたりした。そうすることでご遺体の先生の人生の最後に関わらせていただいている、人と人とのコミュニケーションだということを何度も心から確認することができた。さらに実習が終わり、納棺の時も印象的だった。私の先生は棺の中にタオルケットが入れられていた。ほかの先生には会社の名前の入った手拭いが入っていたり、メガネの入っている先生もいた。私はそれを一人一人見て回った。そうすることで先生方ひとりひとりに生前の様々な人生があり、家族がいることがもう一度ひしひしと感じられた。
まだ私にとって人と身体の関係とはなんなのか、明解な答えは考えられていない。しかし医学を勉強し医師を志すものとして今後も考え続けるうえで、今回の
直接的な体験が圧倒的な実感を伴って考えの一番の土台になっていくように感じる。
このような医学生としての根底的なこと、また当然ながら解剖学についても実感を持って大変多くのことを学ばせていただきました。ご献体いただいた先生、
ご遺族や関係者の方々、本当にありがとうございました。
解剖実習から学んだこと
解剖をして学んだことはたくさんあります。もちろん、試験に出てくるような知識もたくさん学びました。しかし、それと同じか、それ以上に大切なことも学んだと思います。
実習が始まる前に白菊会の方々が、どういう経緯で献体することに決めたのかや献体の精神などを話に来てくださいました。まずそこで、これから行う実習の重みを感じました。そして解剖初日、私たちが担当する先生は女性の方でした。この方がどういう気持ちでご献体なさったのか想像し、これから三ヶ月間頑張ろうという気持ちになりました。
先生の胸を解剖する時、肋骨が折れて血液で染まっていました。何だろうと思い教員に質問すると、それは心臓マッサージの跡だったそうです。その時、この先生が最後まで懸命に生きようとしていたこと、生きるために関わった人たちがいることを強く感じました。そして、改めて命の重みとこの実習の重要性を感じ、身が引き締まる思いでした。
解剖を進めていくと、教科書通りの構造やそうでない部分がたくさんあり、ひとつひとつ学ぶたびに生命の神秘を学んでいるように感じました。そして、神秘的で大切な命の最後を私たちが解剖しているのだという責任感が頭をよぎるようになりました。
実習の最終日、とある教員が「今ここで先生が目を覚まし、皆さんに話しかけるとしたら、なんとおっしゃるでしょうか。その言葉がこの実習でのあなたたちの態度を表していると思います。」とおっしゃいました。そして、自分の先生だったらなんと言うか考えてみました。答えはわかりませんが、考えるほどに、自分はきっと忙しいなりに頑張れたのではないか、でももっとできることがあったのではないか、と複雑な気持ちになりました。
この実習を通じて学んだ一番大事なことは、真摯に取り組む、ということだったと思います。少し前まで生きていて、家族がいて、友人がいて、私たちと変わらず過ごしてきた方が、私たちのために献体をしてくださいました。その思いや期待に応えるためにひたすら一生懸命取り組むことが、とても大切なことだったと感じています。
いちばん最初の解剖の授業で、「解剖の先生は君たちの最初の患者さんでもある」と言われました。そういう意味でも、きっと一生忘れられない解剖実習となったと思います。実習で学んだことは、今後の学生生活や医師になった後に生かせるように頑張りたいと思います。
肉眼解剖実習を終えて
大学に入って三年目の四月を私は複雑な気持ちで迎えた。やっと医学部らしい勉強ができるという期待と、やり遂げられるかという不安、ちゃんと医師になれ
るのかという不安でいっぱいだった。二年生までは自分が医学部生であるという自覚が少なく、医学部だかに特別なことはないと思っていた。医師という職業は
無数にある職業のひとつに過ぎず、どの職業も自分以外の誰かのためにあるもので、どんな職業でも皆、真剣に働いていると考えていたからだ。しかし、肉眼解
剖実習が日前に迫るにつれて自分の置かれている状況ときちんと向き合うことができた。自らの体を私たちの勉強のために提供してくださったご遺体の方とその
意思を尊重してくださったご家族の方の気持ちに応えなければならない。将来のことはまだわからないがとにかく目の前のことに一生懸命取り組もうと心に誓っ
た。
肉眼解剖実習はどれも忘れられない一日であったが、特に初日は深く心に残っている。これから始まることを思うと、初めての黙祷のときに泣きそうになった。ご遺体の方への感謝の気持ちは常にあったが、やはり怖いと思う気持ちも大きかった。勉強とはわかっていても人の体を傷つけてしまうのに抵抗があったし、なにより普通ならありえない状況に自分が置かれていることに戸惑った。一生懸命向き合うと決めたことを思い出し、また、班の人たちに支えられて何とか一日目を乗り切ることができた。
実習は慣れるまでかなり体力的にも精神的にもつらかったが、だんだんと楽しいと思うようになった。人間の体がいかに複雑にできているか目の当たりにする
ことができたし、人によって個性があるということも実感できた。また、病変部位なども観察することができ、病気の恐ろしさと、それでも生きていける人間の
強さにも驚いた。これらは教科書で勉強してもまったく実感がわかなかったことである。また、仲間と協力することの重要さにも気づかされた。それぞれが最善
を尽くし、互いを補い合い、支え合って今回の実習は実り多いものになった。冒頭で医学部生は特別な存在ではないと述べたが、実習が終わった今は特別な面もあると思っている。医療は人の命にかかわり、またその人の周りにいる多くの人にもかかわる。それはとても重大なことで、生半可な気持ちでいてはいけないのだということ。
実習を通して少し成長することができたと思う。貴重な経験の場を提供してくださったご遺体の方とそのご家族の皆さん、教職員の方、そして班のみんなに感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。今回の実習で感じたこと、考えたことを忘れずに日々邁進していきたいと思います。
三ヶ月間お世話になったご遺体の先生へ
拝啓
夏木立の緑濃く、木漏れ日も輝く季節になりました。
このたびは、三ヶ月間大変お世話になりました。思い返せば、先生と初めてお会いしたのは桜の木に新緑が芽生え始めた頃でした。医学部生の一つの山場である解剖学の実習の初日、緊張した私たちの前に現れたのが先生でした。その瞬間私の頭の中には、この先生はどのような人生を歩まれてきたのだろうか、どのようなきっかけでご献体を決意されたのだろうか、といった疑問や、この先生も数年前には普通に生きていらして、ご家族もいらっしゃったのだろうという生前の姿が浮かんできました。そうすると、身が引き締まる思いがしました。
そのような中で始まった解剖実習でしたが、毎回の実習には、班員四人で協力しながら隅から隅まで学ぼうという姿勢で臨み、筋肉や血管、神経の走行など多くのことを学ばせていただきました。とくに、ご病気で苦しまれた痕跡を見つけ心が締め付けられました。
先生と共に過ごす日々はとても早く流れ、新緑の季節を過ぎ、いつの間にかジメジメした梅雨の季節になっていました。実習初日には厳かで怖くも見えた(失礼いたしました)先生でしたが最終日を迎える時には安らかに見えました。
さて、長々と書いてまいりましたが、先生への感謝の念は言葉では言い尽くされません。一般の方ならば、お亡くなりになったらご家族などに見守られながら埋葬される方が多いと思いますが、先生の場合には、見ず知らずの私たちにお身体をおあずけくださり、人体の構造を学ばせてくださいました。そのご決意は容易にできるものとは私には思われません。しかし、この体で学び、良医になりなさいという先生の声が聞こえてくるような気がして、その声に応えるべく真剣に、そして必死に学ばせていただきました。やはり、教科書などで学ぶだけでは得られない、〝実感〟としての人体を学べました。大変ありがとうございました。声も名前も年齢も何も存じ上げませんでしたが、今後も先生の姿を胸に勉学に励んでいこうと決意いたしました。
敬具
(追伸)
納棺式ののちに千葉白菊会の大澤会長がおっしゃった「ご献体された方々の遺志を叶えてくれてありがとう」という言葉が大変胸に残っております。先生、私たちは先生のご遺志を叶えるお手伝いができたでしょうか。
第八十八回解剖慰霊祭 感謝のことば 医学部三年生代表
肉眼解剖学実習は将来医師になる私たちにとって、とても貴重な経験でした。この素晴らしい機会を与えてくださったご遺体の先生、ご遺族の皆さま、ならびに千葉白菊会会員の皆様に千葉大学医学部三年生を代表して心より感謝申し上げます。
解剖実習が終わってしばらく経ちますが、あの三ヶ月間のことは今でも忘れることができません。実習が始まる直前、私はとても怖かった記憶があります。まだ医学部三年生で大した知識は持っていないような自分が、つい最近まで生きていた方にメスを入れることができるか不安でたまりませんでした。しかし、直前のガイダンスで、白菊会の方々のお話を伺う機会がありました。そこで、献体の動機が「亡くなった後でも誰かの役に立ちたい」という尊いお考えであることを聞き、しっかり学ばねばならないという使命感で不安を克服したのです。
初めてご遺体の先生と対面したとき、先生は生前のお姿そのままに横たわり、「さあ、しっかり勉強しなさい」と緊張でいっぱいの私の背中をそっと押してくださいました。私はそのとき、言葉では言い表せない、なにかとても大事なものを託された気がしました。
実習は四人一組の班で取り組み、班員同士協力して行われました。チーム医療の重要性が問われている現代の医療において、コミュニケーションをとりながら協力して作業することはとても大切なことです。私がいた班では毎回一人リーダーを決めて、コミュニケーションをとりながら正確に実習を進めました。チームで一つのことに取り組むことの大切さやむずかしさを学ぶことができました。
また、常に自分が献体したらどのように扱ってほしいか、もしご遺体の先生が自分の家族や知り合いだったらどうか、ということを意識し取り組みました。夜遅くまで実習がかかっても、集中力を切らさないように細やかで丁寧な作業を行う忍耐力や精神力を身につけることができたと思います。
ご遺体の先生やご遺族のお気持ちに応えることができたのか、自分ではまだはっきりとわかりません。しかし、解剖実習を通じて医学とは人の体を扱う学問だということを認識し、医師としての心構えができた気がします。私たちは、これからも研鑽を積み重ね、患者さんに寄り添い、患者さんの立場になって考えられるような医師になるために精一杯努力していきたいと思います。
最後になりますが、故人の方々のご冥福をお祈り致しますと共に、解剖実習に携わって頂いた全ての皆様に深く御礼申し上げ、結びの言葉と致します。
本当にありがとうございました。
芳恩に報いる道
私は大学に入学して以来、団地の一角で祖父と二人で暮らしているのだが、その祖父と同年代の方を日々解剖させていただいていて生命の尊厳を考えない訳に
はいかなかった。解剖実習室にいらっしゃるご遺体の先生が生前何をされていたのか、どんな気質の方だったのかなどは私には無論分からないが、解剖を無条件・無報酬で引き受けてくださったご遺体の方が私たちに託したメッセージは受け取ることができたと思う。先生方は私たちと全く縁のない他人であるのに、快く我々の解剖を引き受けてくださった。そして、私はこれからの医学の発展や「人」の健康を増進することに寄与する人材になるための手技と、臨床の場で必要となる双方向的なコミュニケーションの獲得に必要な第一歩を踏んだ。
解剖の授業時、最初は使用する器具や環境に慣れず一日が終わるだけで疲労を重く感じたが、段々と慣れていき、いかに効率的に手順を進めるかを考えるようになっていた。しかし、それと同時に先生との対話は少しずつ疎かになっているのを自分自身感じた。その折に、遠藤周作の「海と毒薬」を偶然書店で見つけ、
買って読んだ。生体解剖事件を題材にしたこの作品を読み進めながら解剖を行っていくにつれて、私たちが行う解剖はとても幸せなことだということに改めて気
づいた。解剖の班員とお互いに議論をして切磋琢磨して複雑な構造である人体を紐解いていく中で先生のような、医学生のために解剖を引き受けてくださる方が
今たくさんいるということに驚き、そして、我々医学生に託された使命は大きいと再確認した。
私は解剖が始まる前の黙祷の際、毎回「アヴェ・マリアの祈り」を唱えていたが、その一節に「私たち罪人のために 今も死を迎えるときもお祈りください」とある。この祈りの中での宗教的な教義は抜きにして、死を迎えたご献体はマリア様の御許に行かれても、魂魄は私たちの許にありそれを感じ取ることができた。私たち医学生はただの一人の人間であるということを自覚し、決して患者さんの上に立つような傲慢なことはなく、一人一人の人間に対し思いやりをもって真摯に向き合っていくことが、我々に解剖の機会を与えてくださった先生に対する芳恩に報いる唯一の術だと思う。
最後に、ご遺体の先生と、ご遺族の方々、そして、このような貴重な機会を自分たちそして後世に与えてくださっている白菊会の方々に感謝と敬意の意を表
したいと思う。
解剖実習を支える人々
「人体解剖」
大体の人はこの言葉を普段身近に感じることはないだろう。それは、祖父が亡くなる前の僕も同じだった。
肉眼解剖学実習に関わる人間は大きく分けて二種類だと僕は思う。解剖をする側と解剖をされる側である。解剖をされる側にはその本人だけではなく、その人
の家族、友人なども含まれている。ほんの数年前、僕は解剖される側だった。とは言うものの、僕の記憶にあるのは棺に入った祖父の姿とそれを運んで行った車、いつもより元気のない祖母と初めて見た父の泣き顔だけである。そのときは、なぜ祖父が献体をするという選択をしたのか理解することができなかった。だが、医学部に入ることを志してからは、自分が解剖を終えてみれば何かわかることがあるかもしれないと考えていた。
そして、解剖学実習を終えた。解剖が始まるまでの待ち時間で祖父のことを考えることはあった。これから人体を解剖するのだということに対して違和感や非現実性を覚えることもあった。しかし、いざご遺体の先生を前にして実習が始まると、そこには授業の時間が流れているだけであった。僕の中にあったものは知的好奇心のみであり、そこには抵抗感などが存在する余地はなかった。そこにいたのは間違いなく「先生」であり、僕たちは生徒であった。
解剖実習を終えた今、祖父がどのような気持ちで献体をする決意をしたのかはわからなかったが、祖父が一人の先生としてどこかの医学部生に貴重な経験を与
えたことはわかった。そして、祖父以外にもそのような決意をして、先生として医学部生を指導する道を選んだ人々が、社会に出ている医師の分だけいるという
ことを知った。まずは、献体として身を挺して学生を指導することを決意した人々に敬意と感謝の念を示したい。彼らなしでは、世界で活躍している医師たち
は、人体の構造を理解し、医学の学習を修めることはできなかったであろう。僕自身も、今回の肉眼解剖学実習を通して学んだことを生かして多くのことを学ん
でいき、よりよい医師となり社会に貢献したいと思う。それが、今回解剖させて頂いた先生が望んでいることだろうと思うからだ。
さらに、解剖された先生の周囲のひとびとにも同様に感謝している。自分の夫を、妻を、親の遺体を献体として大学に預けることはかなり勇気のいる決断であったと思う。正直僕も祖父が今亡くなったとしたら、本人の献体をしたいという遺志を受け止め承諾するのにかなり悩むだろうと思う。だが、それでも故人の遺志を尊重してそれを実現させている人たちのおかげでこの解剖実習の授業は成り立っている。これから解剖実習に参加する人もすでに終えた人もそのことは忘れずにこれからも頑張っていかなくてはならないと思う。
初めて尽くしの解剖実習
これまでは勉強を怠れば、全て自分に返ってきた。しかし、解剖実習は「先生」の高潔なボランティア精神の基で成り立っている授業でありここで十分に学ばなければ、「先生」の思いを裏切ることになる。大学受験までは自分のために勉強してきた。しかし、医学部に入った以上は自分のためではなく、医学を通して社会貢献するために勉強しなければならないと思う。そのことを実感できる初めての授業であった。そのため自ずと気が引き締まり、普段以上に勉強に力が入った。実際に授業が始まると、なかなか思い通りに進むことがなく苦労することが多かった。血管や神経の走行は教科書通りではなく個人差があるので、血管、神経の同定が特に大変だった。これまでの勉強のように教科書に従って一つの答えに辿り着くのに慣れている僕にとって、教科書はあくまで参考であって「先生」によって答えが違うということに最初は戸惑った。しかし、回数を重ねるにつれてそのことにも慣れていき、当初に比べると同定にかかる時間が短縮された。同定が早くなったのには、もう一つ要因があると思う。
それはチームワークの向上だ。最初の方は、左右の分担を決めるくらいで各々が各々のペースで実習を進めていくスタンスでやっていた。しかし、それでは一人がどこか一か所同定に詰まってしまうとそこで時間をロスしたり、解剖する人が偏りその人の疲れが溜まり効率が悪くなったりすることがあった。そこで、班
員の役割や解剖する班員のタイミングを明確化した。その結果、一人が同定に詰まればアトラスと実習書を持ってナビゲートする班員がサポートして、また、平等に解剖をすることで特定の人に負担がかかることが少なくなった。そのため速やかに同定できるようになってきた。チーム医療の重要性を聞かされることはあっても、身をもって体験する機会はなかなかないので、貴重な体験だった。
このように、今回の解剖実習を通して初めて学ぶことがたくさんあり、とても充実した授業だった。けれども、まだ「先生」の思いには応えられていないと思う。これから様々な体験、そこで行う努力を通して、知識、技術、思いやりを兼ね備えた立派な医者になって、初めて「先生」の思いに応えられたと言えるだろう。そのためには、生涯知識を深め、技術を高め、思いやりの心を育んでいかなければならない。だから、僕が医師を続けている限り、一生「先生」の思いが医師として成長していくための糧となり、たとえ行き詰まっても、この「先生」の思いを胸に精進して乗り越えられると思う。
「先生」との無言の対話の中で
一月三十一日、約三ヶ月にわたる解剖実習が終わった。三ヶ月前、人の身体に初めてメスを入れたあの日を、私は決して忘れることはないだろう。解剖実習が
始まる前、これから実際に人の身体を切って学ぶのだということを漠然と考えることはあっても、あまり実感が湧かない部分があった。しかし、初めてご遺体の「先生」と向き合ったとき、その責任の重さが強烈な実感となって押し寄せ、身の引き締まる思いがした。黙祷を捧げ、「先生」のお身体から学ぶ日々の中で、目の前の「先生」がいったいどんなお気持ちで献体されたのか、考えずにはいられなかった。そこには様々な思いがあったと思うが、その根本にある、これから医師になっていく医学生の学びの糧となりたい、これからの医学の発展に貢献したいという「先生」方の崇高な奉仕の精神に、畏敬の念を抱いた。そしてその「先生」方の思いへの感謝の気持ちとともに、その思いを無駄にしてはいけないという使命感が湧き上がってきた。そうして精一杯過ごした三ヶ月は、あっという間に過ぎ去ってしまったようにも感じたが、それは「先生」からの学びの濃密さゆえだろうと思う。
「先生」は決して言葉で教えることはない。しかしその「先生」との無言の「対話」の中で、私は講義室の中や教科書では決して得ることができない様々なことを学んだ。体中に張り巡らされた血管や神経の走行、誰かが作ったのではないかとすら思えるほどの精巧さの一方で人の手では到底作り出すことのできない複雑さと美しさを兼ね備えた器官の数々、そしてそれらは決して教科書通りであるとは限らないということを、「先生」はその身をもって教えて下さり、私たち学生はそれらを自らの手でもって学んだ。これまで図や写真で見てきた臓器の数々は実際に手で持ってみるとずしりと重かったし、その質感は臓器によって様々だった。このように確かな実感と新鮮な発見に満ちた学びの数々は、この解剖実習でしか得られない、そして一生の財産ともなるような貴重なものであった。
「先生」方の願いは、この解剖実習で終わることはなく、「先生」に学んだ私たちが立派な医師となる日まで続いている。私には、「先生」が私たちを見守って下さっているように思えてならない。「先生」の思いを無駄にせぬよう、立派な医師となるべく努力を続けていきたいと思った。
忘れていた大切なこと
まず最初に、今回の肉眼解剖実習におきまして、私たち医学生にご遺体を提供してくださった献体者の皆様、そしてそのご遺族の方々に深く感謝を申し上げま
す。
私たち二年次の医学生は、今まで授業のほとんどが座学であり、ある意味、教員の方々の講義を聞くだけの受動的な授業でありました。また、その性質上、学習などもほぼ完全に個人個人がそれぞれに行い、試験で結果を出すというものでした。しかしながら、今回の肉眼解剖実習では四人ないしは三人で一つの解剖班となり、班員全員で一つのご遺体を解剖するというものでした。そのため、自分たちだけで実習書をみながら解剖を行うという自主性かつ積極性が求められる授業でありました。そして、班で解剖実習を行う以上、班員それぞれが協調性をもって学習を進めるものでした。
この肉眼解剖実習で、私は最初、ご献体の方々を解剖することによって人体の構造を学ぶことを目標としてきました。しかし、解剖を進めていくにしたがって、知識だけでなく、班員との協調、将来医師になる人間としての倫理観など多くのことを学ばせていただきました。
私は、医師になりたいと思い、小学生から医学部を目指して勉強し、中学校、高等学校を経て、千葉大学の医学部に合格することができました。医学部に入学
してからも必要単位を取得するために勉強をしました。この過程で、私は「誰のために学んでいるのか」ということを忘れていたと思います。医学生を含む医療
系学生は、他学部の学生と違い、「自分」のために学ぶのではなく、将来自分が診るであろう患者などといった「他人」のために学ぶべきだということです。幼少の頃、喘息で入院し、医師の先生に助けてもらってから、自分も「誰かを助けたい」と感じて目指した医師像を、この肉眼解剖実習で、ご献体の方々が思い出させてくださいました。
肉眼解剖実習で、私はご遺体の方々から多くのことを学ばせていただきました。繰り返しになりますが、今回、私たち医学生にご遺体を提供してくださったご献体の皆様、そしてそのご遺族の方々に深い感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
ご遺体の先生が教えてくれたこと
去る二月八日、私達は献花を終え、解剖実習を終えました。
初めて先生とお会いしたあの日から、三ヶ月以上の間、毎回の授業で先生の体を使って勉強させて頂きました。思えば、あっという間の三ヶ月間でした。しかし、その中で先生は医学的知識はもちろん、その他にも多くのことを教えてくれました。先生への感謝の気持ちを胸に、この実習を振り返ってみたいと思います。
十月十四日に行われたガイダンスの前まで、正直に言うと私は「ついに解剖が始まるのか。」と、不安と憂鬱を感じていました。覚えなければならない知識も多く、作業も大変だと聞いていたからです。しかし、ガイダンスが始まるとすぐに私はそんな自分を恥ずかしく思いました。白菊会の皆様の「無条件・無報酬」で死後の自分の身体を惜しみなく私達の勉強のために提供してくださっている、崇高な献体の精神の前に、自分はなんて浅はかな考えをしていたのかと思ったからです。気を引き締め、必死で勉強をするという決意を新たにしたのを覚えています。
そして、先生と初めて対面した瞬間も忘れることができません。初めてお顔を拝見した時、勉強をさせていただくという決意の反面、本当に私が人の身体に手をつけていいのだろうかという不安や、自分にそんなことができるのかという恐怖もありました。ただ、先生の思いに応えるためにも、この機会を決して無駄にすることなく、臆することなく学ばせていただくのだと決め、実習を始めました。
四人で協力して行う実習は、予想どおり簡単に乗り越えられるものではありませんでした。予習をしてきても、細い血管や神経を見つけ出すのは困難で、膨大
な人体の構造を前に心が折れそうになる時も多々ありました。そんなとき、作業の手を止めてふと先生のお顔を見ると、「がんばって。いいお医者さんになって
ね。」と優しく語りかけて下さるような気がし、まだ頑張ろうと思えました。
実習が進むにつれ、先生の想いについて考える時間が増えたように感じます。なぜ先生は献体なさったのだろう? 先生はどんなことを私達に伝えたかったの
だろう?
―正解はもちろんわかりません。しかし、そのことを考えることにも意味があると私は感じました。
そして、年も明け最後の実習の日、達成感はもちろん感じましたが、それよりも不安の方が大きく感じました。私達は先生の想いに応えられたのだろうか、もっともっとできることはあったのではないか。
先生? 先生の遺志を叶えることはできましたか?納棺のときの先生は、いつもと変わらず、けど少しだけ安らかに眠っているような気がしました。
この三ヶ月は、医師になっても決して忘れてはならない、忘れることのできない貴重な経験だったと感じます。これからも粛々と勉学に励み、いい医師を目指
します。最後になりますが、このような機会を与えてくださった、白菊会の皆様、関係者の皆様、ご家族の皆様、そして先生、本当に本当にありがとうございました。ご遺体の先生のご冥福を心よりお祈り致します。
納棺式での涙
先日、三ヶ月にわたった肉眼解剖実習が終わった。長かったようでもありあっという間でもあったこの三ヶ月間、私の生活は解剖実習を中心に動いていたよう
に思う。大学に入学してからわたしは勉強だけでなく、部活やアルバイトなど様々なことをして過ごし、勉強のことを考えるのは、テスト期間でもない限り大学にいる時くらいだった。しかし、この解剖実習が始まってからは、前日の夜には次の日の実習範囲を予習し、その日の実習が終わると実習で実際に見たことの復習をし、大学の外でも解剖学と向き合うようになった。
解剖実習が始まる前のガイダンスの日、「献体をすることで人生の最後の社会奉仕をしたい、自分の体を使って学んでもらうことで将来立派な医師になってほしい」という、白菊会の方々の思いを聞き、当たり前のことだが意志をもって生きていた人のお身体を使わせていただき勉強するのだということを再認識し、身が引き締まる思いになった。
解剖実習初日、はじめてご遺体と対面した時は衝撃を受けた。そこに横たわっているのはまぎれもなく生きていた一人の人間であり、私がこの方を解剖してい
いのだろうかと不安な気持ちを覚えた。また同時に貴重な実習が始まるという実感もわき、ご献体してくださった方の思いと貴重な機会を無駄にしないよう精一
杯学ぼうという意気込みも新たになった。
実習期間中は予習してきたことをもとに、実習書などで人体のつくりを図で確認しながらひとつひとつご遺体で筋肉や神経、血管を見つけその走行を追っていった。わたしの班は、ほかの班に比べて人数が一人少なく、その分ひとりひとりがご遺体と向き合い、多くのことを学ぶことができたように思う。ご遺体から学ぶことはとても多く、実習書で予習してきたとおりに神経や血管が走行していて、こんなにも複雑に入り組んでいる人間の体が実はきちんと連動して動くために精巧に組み合わさってできているのだということにとても感動した。一方で各班のご遺体によって臓器の大きさや形、筋肉の厚みなどが異なりそれぞれのご遺体によって異なる生まれつきの個性、また生活習慣によって作られた個性を感じた。
解剖実習を終え納棺式の日、黙祷をささげながら涙が思わずにじんだ。私は毎回実習のたびに行う黙祷で「献体してくださってありがとうございます、今日も学ばせていただきます」と自分の班のご献体に語りかけていたのだが、この日の黙祷では三ヶ月の解剖実習のことが自然と思い出され、それと同時にもうこの方と向き合い学ばせていただくことはできないのだと思うと何とも言えない寂しい気持ちになったのだ。この三ヶ月で得たことは決して解剖学の知識だけでなく、医師になるのだという覚悟が実習前とは比べ物にならないものになり、また初めて人の体を前にチーム作業を行うという医師への一歩を踏み出した。この三ヶ月の経験は、きっと生涯忘れられないものになると思う。
最後になりましたが、解剖実習という貴重な機会をいただいたご遺体の先生と遺族の方々、白菊会の方々、実習中サポートしてくださった先生方、スタッフの方々に心よりお礼申し上げます。
医師としての将来の糧に
二月八日、納棺式を終了し、解剖実習を終えました。一回一回の実習はどれもとても充実した時間でしたが、今思い返すとあっという間の四ヶ月間でした。
六年間の医学生生活において解剖実習は大きな節目であるということは前々から感じていました。医学の勉強が始まったばかりの二年生で行われることもあり、医学生であることを自覚するはじめてのタイミングとも言えます。先輩方が遅くまで実習室にこもる姿を目にするたび、解剖実習への興味、期待と同時に不安、怖れも感じていました。
実習初日を思い返すとそれはそれは大変な緊張でした。口にはしなくても、学年全体に緊迫感が漂っていました。はじめてご遺体の先生と対面して、実際に先
生のお姿を目にしたときは衝撃を受けました。その日は遅くまで実習をして、疲れ果てて家に帰ったことが思い出されます。
私たちは解剖させていただくご遺体の方を先生と呼びます。実際にこの実習ではご遺体の先生にたくさんのことを教えていただきました。この世界に生きる人
間の体の仕組みを一つ一つ目の当たりにしてその緻密さには畏怖を覚えるばかりでした。教科書でみていた世界が本当に存在しているとわかっていたはずでした
が、とても不思議なものでした。もちろん、一人一人に違いがあり、完全に同じ身体は存在しません。いくら教科書で予習しても実際に目で見て同定していくこ
とが難しいこともありました。例えば、私たちが解剖させていただいた先生には、腕に教科書にはのっていないとても長い血管がありました。とても珍しいということを解剖学教室の先生方に教えていただきました。班のメンバーと話し、先生方のご指導を仰ぎながら一歩一歩進めていった時間は医師としての将来の糧となりました。
実習中にふと先生はどんな方だったのだろうと思いをはせることもありました。どんな思いで医師の卵である私たちのためにご献体くださったのでしょうか。私は小学校の時に教わった奉仕という言葉を思い浮かべました。利益を求めることなく人のため、社会のためにつくすその心はご献体して下さったすべての方々がお持ちになっていた神聖な心です。誰もが持てるようなものではないと思います。
このような貴重な経験をしたからにはこの記憶をずっと忘れずに心に留めて医師として人々の健康を守りたいです。ご献体して下さった先生方の思いを今とい
う時間を生きる私たちが未来へとつなぐ架け橋となれるよう今後も勉学に励み、精進して参ります。
解剖実習は指導していただいた大学の先生方だけでなく、スタッフの方々、白菊会の皆さま、献体をして下さった先生、ご家族の方々、そのほかにもたくさんの方々に協力していただいて成り立っているということを実感しました。ご協力いただいたすべての方々に感謝申し上げます。そして、四ヶ月間たくさんのことを教えていただいた先生方のご冥福を心よりお祈りいたします。
第三十六回千葉白菊会総会 感謝の言葉 医学部三年代表
昨年十月に始まった肉眼解剖実習が二月の納棺式をもって終了しました。実習期間は約四ヶ月と、長いようで短い期間ではありましたが、医学の知識だけでな
く、医学生としての心構えや、医師以前に、人間として大切なこと、生命の尊さと神秘など、たくさんのことを学ばせていただきました。このような貴重な機会
を与えてくださったご遺体の先生、献体制度を支えてくださっている千葉白菊会の皆様に、千葉大学医学部三年生を代表して心より感謝を申し上げます。
十月半ばのガイダンスの直前まで、当時まだ二年生であった私たちは、専門的な授業も始まったばかりで、まだ「ただの大学生気分」に浸っていた頃でした。
しかし、初日のガイダンスでは、普段と同じ教室にいるはずなのに、「いよいよ肉眼解剖実習が始まるのだ」、という緊張感と不安で、まるで違う雰囲気に包ま
れていたことをよく覚えています。白菊会の役員の皆様、また森先生からお話を伺い、学生である自分たちが解剖をさせていただくことがどんなに貴重であるか、そして今回の解剖実習で私たちの先生となる方が、どんな思いで献体をしてくださったのか、切に心を打たれました。
初めてご遺体の先生にお会いしたときのことは、今でも鮮明に覚えています。自分がこれから解剖させていただくのは、私たちと同じ、名前もあり、家族もあり、友人もいて、私たちと同じように人生を送っていらした、一人の人間であるということ。その事実が実感となり、身の引き締まる思いでした。一方で、医学生としてはまだまだ未熟者の私が、ご遺体の先生にメスを入れるなんて、本当にできるのだろうか、そんなこと許されるのだろうか、と不安にもなりました。しかし、こんな私たちに、医学の発展のために、と献体してくださった先生のためにも、できる限りの努力をして実習に臨もうと決意しました。実習前には入念な予習をし、実習中には班員とコミュニケーションを取りながら真摯に実習を行い、実習後には学んだことを忘れないようにと復習を欠かしませんでした。
私の班は四人班で、毎回交代で決めたリーダーを中心に解剖を進め、時には実習書と見比べながら、知識を深め合いました。長時間にわたる実習では、心身共
に消耗し、辛い時間帯もありましたが、メンバー同士で声を掛け、励まし合いながら一丸となって実習を行いました。班員と長時間、長期間にわたって共同作業
を行うことで、チームとして活動することの難しさや大切さ、コミュニケーションの重要さを学ぶことができました。
実習期間中、私は大切な友人を事故で失いました。知らせを受けた次の日、実習室に入った私は、ご遺体の先生のお顔を見て、こらえきれず泣き出してしまい
ました。その友人にはもう会えないという悲しみが、先生にも死を悼み悲しむご家族がいるはずという事実を私に気づかせたのです。先生とそのご家族も離れた
くないはずなのに、私たちのためにここにいらっしゃる。失った友人への思い、ご遺体の先生とそのご家族の思い。様々な感情が入り交じって私は涙が止まりま
せんでした。
一時は、こんな悲しみの中で解剖実習はできない、と思いました。しかし、先生の献体への御遺志を思うと、ここで立ち止まっているわけにはいかないと、再
び前を向くことができました。先生の御遺志だけではなく、ご家族の思いに応えなくてはならないという使命感に、それまで以上に真摯に、誠実に、解剖実習に
取り組みました。
実習前、ただの大学生であった私たちは、この肉眼解剖実習を経て、全員が真の医学生へと変化できたと信じています。実習は終わりましたが、私たちはまだまだ未熟です。先生に教えていただいたたくさんのことを礎に、一人でも多くの患者さんを救える医師になった時に、本当の意味で先生は成願されるのだと思います。背中を押してくださったご遺体の先生とそのご家族の思いを、ひとときも忘れることなく今後も学び続けていきますので、どうか私たちを見守っていてください。
最後に、重ね重ねにはなりますが、このような貴重な学びの機会を提供してくださったすべての方々に感謝の意を示し、結びとさせていただきます。本当にありがとうございました。
医学部生の責任とは
「解剖実習が始まる!」、そう実感したのは解剖の最初の授業、ガイダンスだった。環境生命医学の授業の方だけでなく医学部長、そしてご献体していただいた白菊会の方もお見えになり厳かな雰囲気で執り行われた。なぜ印象的だったかというと入学してから初めて自分が医学部生である、と実感したからだ。むしろ実感させられた、と言う方が正しい。白菊会の代表の方の挨拶に初めてはっとさせられたのだ。ここで述べるのは非常に失礼かもしれないが私には医学部に入る明確な理由がなかった。何となく、というのが実際のところでありいろいろな人と話してみてもそのような学生は結構いる。しかし、「お金をもらうことなくボランティアで自らの意思で医学教育のために献体に協力する」という白菊会の献体の精神を聞いたときに、ご献体の精神に感謝し、その精神に報いることができるようしっかり実習に取り組まなければならない、と感じた。献体してくださった方々に対して責任が生じるのだ。このことを忘れずに毎回の実習に取り組んできた。
実習が終わって振り返ってみたときに以前の自分と勉強に対する姿勢が変わっていることに気付いた。というのも解剖実習は献体してくださった方々に恥ず
かしくないよう精一杯勉強に励んできたが、解剖実習に限らずその他の授業においてもすべて責任を負っていることに気付いたのだ。では誰に対してか。それは
将来自分が診ることになる患者さん達である。将来働き出して患者さんを診察するときにその病気や解剖学的知識を知らなかった、では絶対に済まされないのだ。学生時代の勉強不足で患者さんを危険にさらしてしまうなど絶対にあってはならない。つまり解剖実習含めその他の授業もすべて、未来の患者さんたちに対して責任を負っている。そのことになぜ今まで気がつかなかったのだろうか。
よく、先生が「解剖実習を通して皆の顔つきや態度が変わってくる」、というが実際どうして変わるのだろう、と不思議だった。しかしこの解剖実習を通して医学部生としての自覚をもつことができたように思う。しっかりと自覚したことで講義に対しても責任をもって取り組むことができた。
解剖実習で自分がすこし成長できたように思う。これから三年生、四年生となるにつれて授業数も増え勉強量もどんどん多くなっていくと思う。だが今回、知識だけでなくいろいろと学んだことを絶対に忘れずにこれからの学生生活を過ごしていきたいと思う。
医師になる覚悟を再認識
解剖学実習の初日、初めてご遺体の先生と対面したとき、私の心の中は不安でいっぱいだった。少なからずご遺体の先生にメスを入れることに恐怖感があったのだ。「献体の精紳に感謝を込めて黙祷」の言葉で黙祷を捧げた。心の中で、「お身体を傷つけて申し訳ありません。目に焼き付けて、たくさん勉強させていただきます」と申し上げた。不安の中スタートしたが、作業が進むうちに不安は吹き飛んだ。教科書では学ぶことの出来ない、生の世界が広がっていた。自分にとって新鮮なことばかりで一日が終わる頃には感謝の気持ち、充実感とともに、献体してくださった先生の崇高な精神を無下にしてはならないという責任感でいっぱいだった。解剖実習が進み、慣れてきた頃、ご遺体の先生を「ヒト」ではなく「モノ」のように感じてはいないか、恐怖心があった。毎回身体を開け、指示に従いながら、神経、筋肉、骨を特定する淡々とした日々を当たり前と思っている自分はいないか、自問自答を繰り返した。最終的には、解剖学実習を通して、医師になるのに必要な知識は勿論のこと、それ以上に重要な、医師になる者としての考え、責任感を学べて大変有意義な時間を過ごせたと思う。
「目の前のご遺体が解剖学実習における先生であり、あなたにとっての最初の患者です。」実習が始まる前、終わった後に言われたこの言葉が今でも心に残っている。私の中で最初の患者を受け持つことは何年も先のことだと思っていたからだ。名前さえも知らない先生。お年を召していても比較的筋肉質であったことから、先生は何かのスポーツをしていたのだろうか、身体に残る手術の跡からこんな病気を経験されたのだろうか、と答えは分からないけれども自分の中で想像しながら先生と対話していた。
私は自分にとって最初の患者である先生に勉強させてもらった解剖実習の時を決して忘れないだろう。医師が患者の命を預かる特別な職業であり、自分がその
医師になるんだという覚悟を再認識させてくれた。それほどに解剖実習の時は私にとって貴重な時間だった。
最後に、献体してくださった方々、その献体に同意してくださったご遺族の方々、白菊会の方々、実習をサポートしてくださった大学職員の方々に深く感謝し、この経験を生かして良き医師になれるよう日々精進していきたいと思います。本当にありがとうございました。
初めての患者さん
初めて「人を切る」と聞いたとき、私はどのようなことを行うのか全くわかっていませんでした。まだ医学部に入って一年半しか経っておらず、専門的な知識
もほとんど定着していないため、体をみて何を学ぶことができるのだろうかと私は疑問に思っていました。また、普通の学生は絶対にすることができない、医学
生として与えられたこの特権を私は生かすことができるのか、不安な気持ちもありました。しかし、実際にこの実習を経て、私は知識以上に大切なものがあると
いうことを学ばせていただきました。
最初の講義で何よりも印象に残っているのが、「ご遺体の先生たちは、君たちの初めての患者です」という言葉でした。ご遺体の先生を眼の前にした瞬間、その言葉の意味、すなわち一人の命を預かることの重さがのしかかってきました。解剖を行っている間、私の目の前の患者さんは全く動かず、私の動作一つ一つに
よって患者さんの体は変わっていきます。私と同じように息をして、食べて、寝て、生きる命を受け取ることは、自分の最善を尽くすこと、そして思いやりを持た
なければいけないことだと知りました。患者さんは何よりも大切な命を委ねていて、それは信頼のもとでの行為だということを実感させていただきました。
また、医師という仕事は自分一人ではできないことを学びました。それは医師に限ったものではありませんが、この実習を通してそのことを痛感しました。人
間の体は手、足、頭、などと独立して存在しているのではなく、全ては心臓から出る動脈によって繋がれ、全ての筋肉には神経が通り、静脈によって再び心臓に
戻ってゆくことで、初めて一つの命として存在していることを勉強させていただきました。そのため、自分のわかるところばかりを見ていても、他のところで見
逃していることも多々ありました。実際の臨床に当たっては、医師間の連携だけではなく、看護師、薬剤師、介護士、家族、とたくさんの人と人との繋がりがあ
るということをしっかりと覚えておかなければいけないと思いました。
初めてのチーム医療。そして、初めての患者。私にとって肉眼解剖実習は初めてのことばかりでした。このような貴重な経験をさせていただいたことは感謝という言葉では表しきれません。肉眼解剖実習で学んだことを忘れずに、命を大切にする医師になりたいと強く思います。
わたしの生きる意味
人はなぜ生きているのだろうか、という問いに対して、高校生の自分だったら何と答えるだろう。「将来、働いて家族を養うため」「趣味を続けるため」「いろんな人と会って、お互いのことを分かり合うため」といったところだろうか。そのとき、「体はあたりまえに動く」ということは信じて疑わなかったと思う。しかし、今の私なら、「生きるべくして生きているのだ」としか答えられない。複雑な機能を持つ器官が、異常なく動いているなんて奇跡としか考えられない。
実は、解剖実習期間中に祖父が亡くなった。私が小学生のとき大腸がんだったが、その後十年以上も生き続けたのは奇跡ともいえる。病に倒れても、自分のことは自分で面倒を見る、特に頭のきれる祖父だった。毎年のように祖父の家に帰省しており、その思い出は数えきれない。祖父の葬式では、心が空っぽになったような気持ちだった。いったい、祖父は何を目標にして生きていたのだろう。天国にいる祖父に尋ねてみたくなる。
私たちが「あたりまえ」に毎回の授業で解剖実習をすることができたのは、ご遺体の先生と、スタッフのみなさんのおかげである。今改めて振り返ってみても、ご遺体の先生には心から感謝の言葉を贈りたいと思っている。体の内部構造だけでなく、多くのことを学ばせていただいた。献体するという選択をした場合、亡くなってから二~三年は家族と会えなくなること。そのことは、家族にとっても悲しいことであるということ。解剖実習期間中に祖父の死を経験した私にとっては身に染みる話だった。それでも、献体するという精神でおられた先生には頭が上がらない。なにせ、生きている間に他人に貢献するだけでなく、死後も他人に貢献するという決断をされたのだから。
「あたりまえ」に朝起きて、「あたりまえ」に夜寝る、という生活は、じつは素晴らしい奇跡なのだと、人体の生物学的側面から実感させられた。それだけでなく、私たちが「あたりまえ」に医学部で授業を受けるには、私たちの知らないたくさんの人が関わっているのだと気付かされた。ご献体の先生のように、「他人のために生き、死後も他人に体を捧げる。」といった志は、恥ずかしながらまだ私には持つことができない。私は、「人はなぜ生きているのだろうか」という問いに対して、「生きるべくして生きているのだ」としか今は答えられない。「私は他人を幸せにするために生きているのだ」と胸を張って言えるくらいに成長できたらよいのだが。
人の死について考える
私はこの解剖実習において、たくさんのことを学びました。そのうち特に重要だと思ったことが二つあります。まず一つは、ヒトの体の仕組み。そしてもう一
つは人の死についての考え方です。
私は物心ついてから、身の回りの人が亡くなったことがなかったのですが、今年の八月ごろ、私は高校の担任の先生が亡くなったため、お通夜に参加し、初め
て人の死に触れました。その時はただひたすらに悲しくて、亡くなったという事実をずっと受け入れられませんでした。今回の解剖実習で、人のご遺体を見るの
は二回目でした。最初の実習でご遺体の先生のお顔を見たとき、高校の先生のことが思い出されて、解剖させていただくのが少し怖く感じました。ですが、白菊
会の方々や、先生のお話を思い出し、たった一つのお体を、ご遺体の先生は私たちに提供して下さったんだ、私が解剖させていただくことが、ご遺体の先生にとって喜ばしいことなんだ、と思いなおし、一生懸命実習を行いました。最初は先生の名前も、何をされていた方なのかも、全くわからない状態でしたが、解剖させていただくうちに、こんな仕事をされていたんじゃないかな、とか、健康に気を使っていたのかなとか、どんな最期をむかえたのかなとか、実際はどうかはわかりませんが、何となく先生の生前の様子を想像するようになりました。
いろいろと先生のことについて思いを巡らせていくうちに、人の死について、悲しいというより、素晴らしい人生を全うされたであろう先生に尊敬の念が浮か
び上がり、むしろ先生の死を悲しいと感じるのは、先生の人生に対して失礼なのではないかと考えるようになりました。すると、受け入れられなかった高校の先
生の死についても、悲しむのではなく、先生の人生を尊重するべきではないか、先生の身体がなくなっても、先生との思い出はなくなることはないと、考え直す
きっかけになりました。ご遺体の先生と出会うことなくして、このような考えに至ることはなかったと思います。すべてご遺体の先生のおかげです。
ご遺体の先生、白菊会の方々、環境生命医学の先生方、私に解剖という、皆さんの協力なしには絶対できない、貴重な経験をする機会を与えてくださって、ありがとうございました。この経験を活かし、私は立派な医者になります。
感謝の理由
「黙祷」の言葉で皆等しく目を閉じて、献体の精神への感謝を想う。この所作を私は、解剖実習を通して、その感謝に慣れないように、風化させないように、大事に大事に繰り返し続けました。「いつもありがとうございます。今日は…の解剖をいたします。よろしくお願いいたします。」と、毎回の実習始まりには思い、「今日もありがとうございました。また、よろしくお願いいたします。」と、実習を終えました。メスをそのお身体に入れる時には、そのお身体を少しも無駄にしないよう、丁寧に丁寧に作業を進めました。こうして解剖実習を繰り返し、終えた今、確かに、医学知識の広がりと意欲の向上、そして倫理観の確立を感じます。それは、この解剖実習が、自分にとって意義のあるものであったと私に確信させると同時に、私の感謝をより大きなものにするのです。
学んだことはそれだけではありません。四人の解剖班で、ある過程を時間内に終わらせるという、いわゆるチーム医療の先駆けのような訓練さえ出来ました。役割を分担し、常に確認し合って、効率よく、そして確実に見たものを知識にしていく。特に私の班は、チームワークが良かったと自負しています。
私の先輩方からはよく、「解剖がこれまでで一番自分のためになった実習だった。」と言われており、なんとなくそういうものなのかと漠然と思っていましたが、前述したようないくつもの学びを肌で感じ、自分にとっても確かに、解剖実習は学生生活の中で最も重要な実習の一つなのだろうという想いが生まれました。加えて、これは実習ではないですが、解剖学の先生方の行う解剖学講義が、自分にとっては大学に入ってからの授業の中で最も分かりやすく、それだけでもかなりの知識量が身につくものでした。やはり人は分かることには更に興味が湧くもので、それが自分の解剖学の学習を相乗効果的に良くしたことは言うまでもありません。
最後に、こういった学びを得た上で、無事にこの解剖実習を終えられたのは、ご献体の先生方はもちろん、スタッフや解剖学の先生方、同じ解剖班の仲間達、その他多くの人々の支えがあってこそだと思います。自分の班の先生のお顔は、一生忘れないものになりました。その感謝を忘れずに、これからも医学の道を歩んで行こうと心に誓います。
感謝の連鎖
今回、解剖学実習を通して学んだことは、ただ医学の知識だけではなく、ご献体してくださった先生が私にとって最初の患者さんであり、「人を診る」とはどういうことかといった心構えでした。
私たちのグループの先生は、女性だったのですが筋肉もしっかりついてらっしゃって、安らかなお顔もあいまって生前の生き生きと活動していたお姿が目に浮かぶようでした。納棺式にてお納めさせていただいた棺も、綺麗な桜の柄のものでご家族の方の愛を感じられ、私にとっては名も知らぬ先生だけれども、私と同じように周りの人と関わりながら人生を力強く生きていらっしゃったのだと実感しました。私たちの先生、そして私が将来向き合っていく患者さんは、決してモノではなく気持ちを持つヒトなのだと、そのことを忘れずに勉強に励んでいきたいと強く感じました。頭では理解していたつもりだったけれども、実感を伴って意識し直すことができました。
また白菊会の皆さまとの懇談会に参加させていただいたのですが、その中で理事の方が、「白菊会に登録してもその意思がうまく伝達されず献体できないまま
の方もいる。その中で献体者本人がこうやって学生の皆さんに出会えたのは奇跡に近いのだと、献体したことを感謝されるけれどもこちらこそ解剖してくれてあ
りがとう」とおっしゃってくださいました。私は、私たちが感謝する側であると思い込んでいたので、逆にこういったお言葉をいただけたことにとても驚きまし
た。でも、こういったひとつひとつの出会いに感謝していきたいと思ったと同時に、お互いの気持ちを尊重して、感謝しあえる関係を築きあげられて来られたこ
とは素敵だし、私も大事にしていきたいと思いました。他者と関わっていくということは、決して一方通行な思いだけで成り立つものではなくお互いに影響しあ
い、双方から気持ちを交わし合うことなのだと感じました。将来患者さんを診ていくにあたって、医者という立場に奢るのではなく、人と人の対等な関係として
関りあっていけたらいいなと思いました。
最後に、ご献体してくださった先生方、並びにその意思を尊重して同意してくださった先生のご家族の皆様、充実した授業を作り上げてくださった環境生命医
学の先生方、お仕事で忙しい中、座学と現場の知識を繋いでくださった臨床の先生方、この解剖実習を支えてくださった全ての方に感謝したいと思います。
静寂の手紙
「それでは献体の精神に感謝して、黙祷。」この号令で黙祷した回数、35回。
号令なしで黙祷した回数、32回。
一人の人間が生きられる回数、1回。
先生は一体どのように生きてこられたのか。たしかこれが一番最初に投げかけた疑問だ。
そしてこの時から、先生からのお返事はいつも、その静かな御体を以てなされた。私はそのお返事を一言一句読み飛ばさぬよう、生前の様子がうかがえる身体所見は特に注意深く観察した。
人の生き方はそれぞれ違っていて、つまり身体もどれ一つとして同じものはなく、教科書通りになんていかないということを教わった。解剖実習の意義も実感した。しかしながらご遺体を観察すればするほど先生のことをさらに知りたくなるのも事実で、先生が生きておられるうちにお会いできたらどんなに良かっただろうと思ったりもした。こうして感想文を書いている今も私は先生のお名前すら知らず、「先生」「ご遺体」などとしか呼べないことが少々寂しく感じられる。
良い医者とはどのような医者か。私はどのような医者になるべきなのか。これは半ば自分への問いかけでもあるが、先生に投げかけずにはいられなかった。なぜなら先生は、私たち医学生が良い医者になれるようにと自らの御体を無条件に差し出してくれた張本人だからだ。私はその先生の意向に添う生き方をしたいと思った。そして先生からのお返事は、やはりその御体、その生き様によって語られた。「誰かのため」。私の前に横たわる先生のご遺体は、その気持ちの固まりだ。先生が私たち医学生のために献体してくださったように、私もいつか自分以外の誰かのために全力を尽くしてみたい、それが良い医者としての第一条件なのではないか、と私は考えるようになった。
一人の人間が生きられる回数は一度きりである。私は、先生の一度きりの人生のために何度でも黙祷しよう。そしてまだ見ぬ患者の一回きりの人生のために今後いくらでも勉強しよう。
私がいつか誰かのために全力を尽くせた時、先生の人生が本当の意味で全うされることを祈りながら。
肉眼解剖学実習を終えて
2020年は新型コロナが流行し、1年を通してずっと大変な年でした。ようやく2年生になり、やっと医学の勉強ができることに期待をしていた年でしたが、新型
コロナの影響で前期の授業は全てオンラインとなり、思い描いていた2年生としての大学生活とは大きく異なるものとなりました。前期は実習でさえ中止になって
しまい、私はこのころから自分たちは解剖実習を行うことができるのだろうかと不安でいっぱいでした。生命倫理などの授業を通して、解剖実習の意義が単に人
間の体の構造を学ぶことだけではなく、実際にご遺体の先生を前にして医師になることへの自覚や、使命感、倫理観、人の生死について考える機会を得るとても
大切なものであることを知りました。新型コロナで世間が大変な中、こうして私が無事に解剖学の実習を終えられることができたのは、授業をしてくれた先生
方、実習室での感染対策を指揮してくださった方、一緒に実習をやった同級生、そして何よりご献体してくださった白菊会のご遺体の先生とそのご家族の皆様の
おかげです。本当にありがとうございました。
いざ実習が始まって、初めて実習室に入った時、初めてご遺体の先生のお顔を見たとき、初めてその冷たい肌に触れた時、初めてその肌にメスを入れたとき、
とても緊張し、とても不思議な気持ちになりました。個人情報保護の観点から、私たちはご遺体の先生の名前や年齢を知ることはできませんでしたが、名前や年
齢だけでなく先生が生前どのような人だったのかがわからなくても、ご献体された先生と最後に関わる他者として、崇高な精神を持つ先生に真摯に向き合おうと
決意を固めました。毎回、実習のはじめの黙祷ではご遺体の先生に「今日もよろしくお願いします。先生の身体でたくさん勉強させていただきます。絶対に立派
な医師になってみせます。」と挨拶をし、終わりの時には「今日もありがとうございました、次回も頑張ります。」と挨拶をしました。ご遺体の先生を前にする
と、不思議と応援されているような気持ちになりました。
ご遺体の先生と直接お話しすることはできませんでしたが、私たちは先生の身体を端から端までしっかり見させていただくことで、先生の身体と対話をさせて
いただきました。はじめの頃、私たちは死因表というものの存在に気づかず、ご遺体の先生がどのような理由でお亡くなりになられたのかわかりませんでした。
しかし、先生の身体をじっくり見ていくと、教科書に載っている正常な身体と異なる点がいくつかあり、先生の身体に何が起こったのか、想像することができま
した。後に死因表の存在を知り、拝見したところ、先生の死因は先生の身体に起こっていた変化と矛盾のないものでした。病院に来る患者さんは病気を言葉で語
り、身体で語る、というのを聞いたことがありますが、身体で語るというのはどういうことなのかというのを深く実感しました。ご遺体の先生には、絶対に教科
書だけでは学べないことをたくさん教えていただきました。この実習で学んだことを忘れずに、これからも医学の勉強と真摯に向き合って、お世話になったご遺
体の先生の期待を裏切らない立派な医師になれるよう、努力していきたいと思います。最後に繰り返しになってしまいますが、この解剖実習のために尽力してく
ださった全ての方、何よりご遺体の先生方に深く感謝申し上げます。
私の解剖実習での成長
私は肉眼解剖学実習を通して、人間の体の仕組み・構造などの医学知識や医学生としてのさらなる自覚、さらにはチームとしての動く時の大切な事などを学ぶ
ことが出来た。このような学びの機会を社会がコロナという感染症で大変な中、講義の実施のために準備を進めてきてくださった千葉大学医学部の教授方、また
お体を提供してくださった方やそのご家族の方々に深く感謝の意を示したい。
私は医学部の授業のなかで解剖実習が最もと言ってもいいほど興味深く楽しみにしていた授業だった。そのため、今年度も予定通り行われるという事を知った
ときは非常にうれしかったのを覚えている。初めてご遺体の方と対面した時は、このような貴重な機会を頂けることに感謝の気持ちが浮かぶと同時に、ご遺体の
方にこれから3ヶ月間執刀していく緊張感や不安感も抱いた。しかし実習を進めていくと、講義で見聞きした知識としての筋肉、神経や血管、臓器などが目の前
に現れる感動と生命の体の不思議や神秘に触れる事が出来た衝撃はとても大きなものであり、時がたつとともにいつの間にか、もっとよく知りたい、早く他の臓
器や筋肉も知っていきたいというポジティブな感情が先走るようになった。あっという間に実習の全過程を終了していたというのが素直な気持ちだ。非常に有意
義な時を過ごす事が出来たと確信している。
また私は、縁あって同じ班で解剖実習を長い間一緒に取り組んだメンバーにもとても感謝している。私の班は通常4人班であるところを3人班として実習を行
わなければならなくて、他の班よりより協力して良い連携を取っていくことが求められた。班のメンバーとはほぼ初対面であったが、互いに任された作業を誠実
に取り組み、分からないところなどは毎度確認するなど連携がしっかりと出来る雰囲気が常に出来ていたと思う。こうしたチームワークが実習に遅れる事なく無
事に取り組めたことにつながり、さらに長い間同じメンバーで、チームの雰囲気を維持することの大切さや難しさを知ることが出来た。恵まれた班員が実習を充
実させた要因の大きな一つだと私は胸を張って言う事が出来る。
今回のこの実習は私の医師への道の大きな基礎となり、大きな一歩となった。医師になったときに解剖を経験しているという事が大きな支えとなると思う。こ
のような経験のためには、私たち医学生は千葉大学医学部の教員の方々や肉眼解剖実習でサポートをしてくださった技術職員の方々、また地域の方々のお力添え
があって様々な学びをすることが出来ていると非常に実感している。そうした支えがあって常に講義が行われている事を常に肝に命じ、精力的にこれからの医学
部のカリキュラムを乗り越えていきたい。その暁に医師として地域の方々の健康面でのサポートをしていくことが出来たらこの上ない喜びとなるだろう。
ヒトを診れる医師に
解剖実習は私が将来医師となるためにとても鮮烈で貴重な経験となった。ヒトの体にメスを入れ、実際に自分の目で直接筋肉や臓器を観察し、触れ、その複雑
さを実感する。初めてのことばかりで興味が絶えず、忘れることのない強烈な記憶となった。解剖実習を通じて人体の構造、機能など大量の知識、不安や体力を
克服する精神力、そしてなにより私たちにこのような機会をくださった方々に対し真摯であろうという気持ちを得ることができた。
初めてご遺体の先生方と向き合い、メスを入れた日のことは今でも鮮明に覚えている。亡くなった方を傷つけるということはこれまでの人生の常識の中で禁忌
ともいえることで、気丈に振舞っていたつもりだが心の中で大きな抵抗があった。ご遺体をきれいなままご遺族の方々にお返しすることのできない申し訳なさも
あった。しかし、献体してくださった方々の将来の医療に貢献するという遺志を素直に受け止め、全力で勉強させていただき、余すところなく自身の経験となる
ように尽力しようと決意し葛藤を打ち切った。
解剖実習が進んでいくと筋肉や臓器だけでなく、血管や神経なども観察するようになり、改めて人体の複雑さを感じるとともにその中に整然とした規則がある
ことを実感し感動した。筋肉と神経の対応、血管の走り方、神経ネットワークの組まれ方、関節の仕組み、どれもが効率的に作られていて、これらの構造が自然
に発生してきたことに感動せずにはいられなかった。また実際に触れることで神経がとても繊細でもろく、すぐ傷ついてしまうこと、しかし簡単には切れてしま
うことのない丈夫さも兼ね備えていることに驚いた。その他にもとても私には治ると思えない怪我も治してしまう、人間の回復力も学び、ヒトの体の強さ、整然
さ、そして奥深い神秘を感じることができた。
献体してくださった方々に対して、充分な感謝を表せたかということを実は未だに不安に思っている。私はこれまで学校の勉強はしてきたが、正しい礼節、マ
ナーなどを学んできてはいないし、常識程度の礼儀を知っているだけで、献体するという大きな決意をしてくださった方々に対して十分な礼節を示せるか自信は
なかったし、今も十分だったかはわかっていない。しかし遅刻せず、黙祷を真剣に行い、献体してくださった方々の遺志に背かないように全力で学ぶ。私ができ
る思いつく限りの礼儀でもって解剖実習に取り組むことはできたと思っている。
解剖実習を終えて、自分が多くの方の支援を受けながら将来人々を治す医師になることを期待されている、医師の卵なのだということを自覚した。私を支えて
くださった方々への最大の恩返しは、良い医師となって多くの人々を助けることだと思う。献体の精神に対する感謝を生涯忘れず、病気だけでなくヒトに対する
真摯さを忘れない、ヒトを診ることできる医師になれるよう日々の勉強に精進していく。
コロナ禍にあっての解剖実習
肉眼解剖学実習開始直前の9月下旬。私たち医学生にとってとても重要なカリキュラムである実習を、コロナ禍の中で本当に行うことができるのか、不安に駆ら
れていたことを想い出します。逆境の中、工夫を凝らして平常に近い実習の場を設けてくださった解剖学教室の先生方に心から感謝いたします。また、貴重な機
会を与えてくださったご遺体の先生およびご遺族の方々にも、改めて御礼申し上げます。
私たちの解剖班が担当させていただいたご遺体の先生は、しっかりした筋肉や骨をお持ちでしたので、自らを厳しく律した生活をお過ごしであった方なのでは
ないかと感じました。そんな生前のお姿に思いを馳せ、ご遺体の先生やご遺族のお志に少しでもお応えできるようにと、班員一丸となって毎夜遅くまで実習に励
み、丁寧に一生懸命学ばせていただいたつもりです。医師としての先輩である私の父は、実習前に「ご遺体を拝見する機会は、医師になってからではなかなか得
られないので、誠心誠意勉強させていただきなさい」と話してくれました。その言葉通り、教科書での予習や座学では理解が及ばなかった人の身体の構造に、一
回一回の実習が驚きの連続でした。ご遺体を直接見せていただくことでしか得られない貴重な学びの機会を頂いたことで、生前のお志に対し、畏敬と感謝の念を
新たにいたしました。
また、今回ご遺体の先生と対面し、解剖させていただいたことで、「人の死」ということの重みが私たちの心に深く刻み込まれたように感じます。ご自身の死
後に身体を提供してくださるということは、とても大きな決心なくしてはできないことだと思います。私たちは、そのご決心にお応えすべく、私たちの双肩にか
かる責任感を班員で互いに確かめ合いながら、実習に励んでまいりました。肉眼解剖学の先生方は、「ご遺体の先生は諸君の初めての患者である」とご指導くだ
さいました。そのお言葉の通り、私たちが忘れてはいけないことは、医師一人ひとりが、患者さん一人ひとりの生命や生活、そしてそれを取り巻くご家族にまで
思いを馳せ、責任と自覚を持ち、それを反芻しつづけることだと、ご遺体を前に身が引き締まる思いでした。
今回の実習は一人のご遺体の先生を4人の班員で勉強させていただきました。ご遺体の先生の貴重なお志を実りのある実習という形で具現化するためには、班員
との協力が不可欠です。現代の医療においても、さまざまな診療科の医師たちが垣根を超えて協力し、各分野の専門医療スタッフの方たちとともに一丸となっ
て、いろいろな外傷や疾病に立ち向かわなくてはなりません。解剖という形ではありましたが、チーム内で協力して物事を成し遂げていくとはどういうことか、
今回の実習を通してその基本を教えていただいたように思います。
コロナ禍にあっても、充実した解剖実習を行うことができたことへの感謝を忘れずに、社会に貢献できる医師となれるようこれからも努力していくことをご遺
体の先生にお誓いして、お礼の言葉といたします。ありがとうございました。
解剖実習を終えて
先日、約3ヶ月に及ぶ肉眼解剖学実習を終えました。実習初日の白布をとって初めてご遺体の方と対面した時が、つい昨日のように思えるほど激動の3ヶ月だ
ったように感じます。振り返ってみると自身の心境にも大きな変化が生まれました。
解剖実習を迎える前までは、自分は将来医師になるとはわかっていても、まだ卒業までに最短で5年以上はあるので、どこか他人事のような感じを覚えていまし
た。1年次は新型コロナウイルスの影響もあって実習等も中止となり座学が基本でしたので、どこか高校の延長線上のような感覚すら持っていました。
そうした意識が大きく変わったのがこの解剖実習でした。初日はまず献体の精神について拝聴した後、実際に実習することになったのですが、ご遺体にかけら
れていた白布をとり始めて対面した時、「自分は今からこの前まで私と同じように生きていた、目の前の方を解剖するんだ。この方の尊い精神のおかげでこうし
た実習ができるのであるから、その精神に報いるためにも立派な医師にならないといけない」と強く思うようになりました。
そうした意識を持って取り組んだ解剖実習は、強烈に記憶に刻み込まれています。それまで図でしか見たことのなかったような心臓や肝臓といった臓器の大き
さ、骨の強固さ、神経・血管の配置など実際みることができ、感動を禁じ得ませんでした。「人体は非常に美しくできている。」私がかつて読んだ本に書いてあ
った一節ですが、それを肌で感じ取ることができました。これほどまでの体の精巧さを作るために進化を繰り返してきた、生物の荘厳さに畏怖の念すら抱きまし
た。このような体験ができたのも、ひとえに献体の尊い精神のおかげだと思うと、感謝の念がますます大きくなっていきました。
解剖実習では、ただ単に解剖の知識だけではなく、献体の尊い精神、そして自分が医師になる強い自覚といった、座学では学べないようなことを数多く学ぶこ
とができました。こうした貴重な機会を設けてくださった先生方や千葉白菊会の方々、そして何よりご自身の身体を提供してくださった、私の「先生」であり、
初めての「患者さん」にあたるご遺体の方とそのご遺族の方に深く深く感謝を申し上げます。自身の体を医学の発展のために提供すると決断した時、そしてその
決断を聞いたとき多くの葛藤があったと思います。そうした葛藤も踏まえて、この恩義は私が医師となり、日本の医学に貢献していくことで、わずかながらです
が、きちんと返させていただくということをここに誓います。この度は本当にありがとうございました。
拝啓
梅のつぼみもようやくほころび、春の気配が感じられる頃となりました。
先生にはこの4ヶ月間、本当にお世話になりました。実習を終えた今、感謝の気持ちとともに、強い責任感を感じています。
先生と初めてお会いしたのは、少し肌寒くなってきた10月半ば、医師への登竜門といわれる解剖実習を控え期待と不安の入り交じっていた私の前に、姿を見せてくださいました。先生のお顔を見た途端、期待は緊張に変わりました。自分がこれから解剖させていただくのは、1人の人間であること、頭でわかっていただけだったその事実が実感となった瞬間でした。先生のお顔は厳しい中にも優しさが滲み出ていて、どんな人生を送ってきたのだろうか、お子さんやお孫さんはいらっしゃるのかな、と考えると、身の引き締まる思いでした。
先生は覚えておいででしょうか。11月の末、普段通り解剖実習室に入った私が、先生のお顔を見て急に泣き出してしまったことがありました。私の大切な友人が事故で亡くなった、その次の日のことです。つい数日前は元気だったのに、その友人にはもう会えないという悲しみとともに、先生にも死を悼み悲しむご家族やご友人がいること、そして先生もご家族の元に帰りたく、ご家族も先生の帰りを待ちわびているだろうことを考えると、涙が止まりませんでした。人の死は、その人だけのものではなく、周囲の人々にとっても大きな出来事です。きっと先生もご家族も離れたくはないのに、私たちのために、医学の発展のためにここにいらっしゃるのだと痛感しました。先生の願いのため、そして先生を私たちに預けてくださったご家族のためにも、ここで悲しみに打ちひしがれている暇はないのだと、前を向くことができました。それまで以上に真摯に誠実に、解剖実習に取り組むことができました。解剖実習を終え、最後に先生のお顔を拝見したとき、「ここからですよ。」と言われているような気がしました。先生の願いは、ただご献体されることだけではないと、今の私にははっきりわかります。私たちが、先生に教えていただいたたくさんのことを礎に1人でも多くの患者さんを救える立派な医師になったその時に、本当の意味で成願されるのではないでしょうか。
先生、長いようで短い4ヶ月でしたが、本当にありがとうございました。時には遠回りすることも、悩み苦しみ立ち止まることもあると思いますが、絶対に素晴らしい医師になってみせます。見守っていてください。
敬具
感謝
初めに、今回、解剖見学させていただいたことにあたり、献体してくださった方、そのご家族の皆様、担当してくださった教員の方々、また、白菊会の方々に心から感謝しています。本当にありがとうございました。
私が看護師になろうと思った理由は、死というものをとても身近に感じ、自分もそれに関わる職に就きたいと思ったからです。私は中学三年の十二月二十四日に父方の祖父を亡くしました。両親が共働きということもあり、私はおじいちゃん子でした。兄の登校を祖父におんぶされて見送ったり、祖父の自転車の後ろに乗って近所のスーパーにお菓子を買いに行ったり、運動会やマラソン大会では恥ずかしいくらい大きな声で応援してくれたりと祖父との思い出は語り切れません。祖父が癌を宣告された時のショックを思い出すと今でも胸が苦しくなります。葬儀の時、私は悲しみのあまり、祖父の顔を見ることができませんでした。
解剖見学のことを聞いたとき、単純に「やだな」と思いました。将来のため、よりよい看護のためとはわかっていても、どうしても気が進みませんでした。解剖実習室に入り、本当にやらなければいけないんだと実感したと同時に、じぶんの感情の中に献体してくださったことに対する感謝がこみ上げてきました。もし自分が遺族だったら献体を快く送り出せなかったと思います。献体してくださるとは、とても大きなことで感謝しなければいけないことだと思いました。そこで気持ちを切り替えることができました。
解剖見学において一番実感したことは、自分の知識の甘さです。私が受けた講義の中で看護学原論というものがあります。看護とは患者の持てる力を最大限に引き出し、生命力の消耗を最小限にすることと学びました。納得はしたものの、では実際にどのような看護をしていかなくてはならないのかを考えたとき、対象の全体像をしっかり理解し、どのような機能が残されていて、どのようなことができるのかを把握するということが前提になくては、よりよい看護はできないのだと思いました。形態機能の知識を土台にし、個々人の状態に当てはめながら応用していかなければ看護できないのです。そのためには形態機能学や病態学、代謝栄養学などの授業において表面的な理解を広げていくことは大前提であると感じました。今回の学びを活かし患者さんの持てる力を最大限に活かした看護につなげていきたいと強く思いました。
今回の学びは、ご遺族の理解とご協力がなければ実現しえないものであったと思います。このことを忘れることなく、医療専門職者として、今までの自分を見つめなおし、ひたむきに成長を続け、社会に還元していきたいです。
もう一つの立場
看護学部に入学して一年が経ち、今回皆様の尊い思いのもとで私たち八十四名は解剖学見学をさせて頂くことができましたこと、心よりお礼申し上げます。
私事ですが、私には看護学生という立場の他に、もう一つの皆様と同じ家族側という立場があります。私の母方の祖母は私が小学生の頃、地元の大学の献体に申し込みを希望しました。一人娘だった母は献体の同意書にサインをするまでに何年もかかり、同意書を提出できた頃には私は中学を卒業する頃だったと記憶しています。その影響で子どものころから家族で病気や死について話し合う機会が増え、送付されてくる会報のなかの『成願』という言葉に小学生なりの違和感と大好きな祖母の死を想像して何度も泣きました。一度だけ「怖くないの?どうしておばあちゃんがしなきゃ駄目なの?」と聞いたことがあります。祖母は「怖くないよ。あなたにいつか赤ちゃんができてお母さんになるでしょう?大切な家族がいつまでも続いていくためにも、一つでも病気が治るようになったり、みんなが元気で暮らしていけるようになったらいいでしょ?」「おばあちゃんがすることは、この人はこんな病気で亡くなったのだなと研究したり、新しくお医者さんになる人が勉強する為の先生になることなのだよ。」「将来あなたの大切な家族を助けることになるかもしれない、みんなの命を守る大切なことなのだよ」と教えてくれました。それでも今回の見学は不安な気持ちとしっかり学ばなくてはという複雑な気持ちで臨みました。現在では丁寧に解説された写真入りの解剖学の教科書が多く販売されており、細かな部分まで事前学習しておくことが可能でした。しかし先生方に教えていただいたことは教科書では学べないことばかりでした。今まで理解していたつもりだったこと、イメージと全く違ったこと、教科書通りの人体なんてないことでした。そしてそれは人体構造のみならず、教科書通りでは医療者は務まらないことをも同時に教えていただいたような気がしました。様々な人がいて、様々な病気や思いを感じ、悩み、不安を抱えている患者さんを前に教科書から得た知識だけでは対応しきれないこと、教科書や学校以外でのこともたくさん学ぶように教えていただいたのではないかと感じています。
祖母は現在、認知症が進み介護施設で穏やかに余生をすごしておりますが、元気な頃は地元で進学塾を経営しており、ご近所では『先生』と呼ばれていました。祖母は最期まで先生と呼んでもらえるのですね。白菊会の皆様をはじめ、祖母の意志へ尊敬の念と共に、医学部生や自分を含めた看護学生が今後の医療についてご献体頂いた先生からしっかり学び活かしていかなければならない責任感を感じました。
最後に、小宮山先生のおっしゃられたように、「人は他人のために生きているわけではないけれど誰かのためになれたら一番の幸せ」このような白菊会や祖母の思いと生き方に対し、私は看護師として誰かのためになれるような生き方でこれからの人生を捧げていきたいと考えています。本当にありがとうございました。
解剖見学を終えて
初めに、今回解剖見学をさせていただき、献体してくださった方とそのご遺族の方々、白菊会の方々、先生方、今回の解剖見学に携わってくださったすべての方々に心より感謝申し上げます。
今回の解剖見学では、今まで二次元でしか学ぶことができなかった人体構造を三次元的空間で学ぶことができ、人体構造の理解が深められたように感じます。また、私は今までは教科書や参考書などの図や写真からしか人体構造を学ぶことができなかったため、この臓器はこういう形だとか、この臓器はこういうふうに付着しているのだ、などと自分の中で勝手な固定観念をつくってしまっていました。しかし、今回の解剖見学で今まで見てきた図や写真とは異なる本物の人体の姿を目にしました。こういうものだと思い込んでいたものが全く違っていたことに驚きを感じると共に、臓器も骨も神経も何もかもが人それぞれ違って当たり前なのだ、同じ大きさや形の構造を持った身体の人なんて誰一人いないのだということに気づかされました。
私は看護学部の二年生になり、患者さんへの看護技術を学ぶ授業の中で答えを教えてくれない先生方に初めは苛立っていました。しかし徐々に、答えを教えてくれないのではなく、答えがないのだということに気づきました。それはこの世界の中で誰一人として同じ人は存在せず、看護の対象となる人が人それぞれ違うのだから同じ看護なんてできないからでした。人体の構造をしっかりと理解していなければ良い看護は行うことができません。また、形や大きさは人それぞれ違うけれど、人体の共通点はしっかりと理解しなければなりません。今回の解剖見学では人の身体は人それぞれ違うことを理解しながらも人体の共通点も再確認することができました。また、人体の立体的な構造を学ぶと共に今まで教科書だけの固定された知識ですべてを済ませようとしていた自分に気づかされました。
解剖見学の最後に先生が「今回実際にご献体によって人体の構造を見て、ただそれを見て感動しただけで終わりにするのではなく、これから学びを進めていくうえで思い描くことのできない構造があれば、それを逐一調べて確認することでこれからのその人の伸びが変わってくる。」とおっしゃっていました。また、今回の解剖見学は、未来のために役立てたら、と私たちに希望を託してくださったご献体の方々の気持ちがあってこそ成り立つものだと思います。今回の解剖見学を「身体を見た」というただの経験で終わらせるのではなく、たくさんの方々の未来への希望に答えられるようにこれからの学習により精を出していきたいと思います。
看護職のたまごとして「生きる」
まず初めに、千葉大学看護学部の講義におきまして、ご献体いただいた先生方をはじめ、そのご家族、白菊会の皆様、医学部・看護学部の教員の方々等、本当に多くの方のご協力のもと今回の解剖見学をさせていただきましたことを心からお礼申し上げます。
看護学部に入学して約一年半が経ち、生きるとは何か、死とは何か、について考える場を何度も踏み、大学に入学する以前の「生と死」についての考え方とは違った視点で考えるようになりました。というのも、看護学部に入学する前は私は母方の祖父母を亡くす経験をしており、「死」というのは悲しくて仕方のないもの、できれば考えたくもないもの、という固定観念がありました。しかし看護学部に入学し、人体というもの、生きるとは何か死とは何か、そして「生きる人」をケアする看護を学び、人はいつか必ず生涯を終える時が来るけれども、だからこそ人というのは生きている今、何かに一生懸命になったり、学んだり、泣いたり笑ったりして、誰かを支え誰かに支えられていくものなのだ、そして看護職者はその誰かの「生きる」を支える役割であるのだ、ということを実感したのです。今回の実習ではその自覚を改めて思い起こし、先生方が私たちにどのようなことを望みどんなお気持ちでこのような機会を与えてくださったのかを考えながら、責任を持って学ばねばならないと強く感じ臨みました。
先生方が教えてくださったことは本当にたくさんありました。まず、今まで教科書で学び想像していたこととの合致点と相違点がそれぞれたくさんあったことです。例えば、ほとんどの臓器の形は教科書で見たとおりのものであり、普段何気なく使っている教科書というのは、こうしてご献体された先生方が過去にもたくさんいらっしゃったそのおかげであるのだと強く実感し、そうして教えていただいた知識を、私たちはもっと大切にしっかりと学ばねばならないと思いました。そして生体を構成する、様々な器官が、実際にどのような場所にどのような形で存在しているのか、また個々によってどのような違いがあるのかを先生方から学ぶことができ、私たちが臨床に出た際、様々な疾患を抱えた患者さんに対して、基本的な体の仕組みについての知識を持ちながら個人差を考慮に入れてケアを提供していく必要性について考えさせられました。患者さんの発する「痛い」という言葉ひとつに対して、実際にどの器官がどのような状態にあるかを考える視点というのを、今回の見学を通して身につけられたように思います。
先生方からのご教授により、より一層看護職者のたまごとしての自覚を持つことができたと同時に、「生きる」について改めて考えるきっかけを与えていただきました。今回の貴重な経験を最大限に活かし、私たちが看護職者になるために必要なことは何かについて考え続けながら、これからも学習に励んでいきたいと思います。最後になりましたが、ご献体いただいた先生方をはじめとする今回の実習にご協力いただいた皆様に、重ねて心よりお礼申し上げます。
医学・看護の発展のために
解剖見学をさせていただくにあたって、今まで教科書で学んできたことを実際に見て、触ることでより理解が深まるであろうという期待感と、人の命の重さについて改めて考えていかなければという思いがありました。
解剖見学が始まる前、母と献体という制度について話しあいました。母に献体を志願するかどうか尋ねたところ、「もしそのような機会があればやっても構わない」、「今の医学の発展があるのは、これまで献体などに貢献していただいた方々の命あってのものだと思うので、自分も貢献できるのなら…」と言っていました。私は、母の答えに驚きました。そのような考え方も十分理解できるのですが、正直なところ、もし母が実際に献体することになったら反対してしまうだろうし、私自身も献体を進んで志願することに抵抗があったからです。しかし、実際に解剖見学を経て考えが変わりました。
今回の実習を通して、教科書だけではイメージが難しく、どのような構造になっているのか理解しがたかった点や、神経などが通っている所を実際に見て、場
所を確認することで、看護をするときもここは神経が通っているから圧迫などは気を付けなければいけないなど、見学をしたことで立体的にそれをイメージすることができるようになり、人体の構造でもやもやしていたことがとてもすっきりしました。
また、他の看護学部の学生も進んで先生方に質問し、積極的に構造を観察しようとしている姿がありました。学習しようとする姿勢だけではなく、献体していただいた方々への敬意も感じることができました。
人体解剖では、教科書だけでは理解が難しいことも実際に自分の手で触れ、目で確認することで、紙で学び得られる知識とは異なるものだと感じました。そして、やはり医学や看護学の発展には献体してくださる方々が必要不可分であることを改めて実感しました。私も含め、学生の人体解剖実習に対する姿勢と敬意を感じ、人体解剖が学習の理解を深めていく上でどれほど重要であるのか身をもって感じたので、この見学を経験するまでは献体に対して抵抗があったのですが、将来機会があれば献体することについて考えてみようと思うようになりました。
献体してくださった方、またその家族の方々にこのような貴重な経験をさせていただき成長させていただいたことに感謝の気持ちを忘れず、今回の授業で学んだことを活かしこれからも精進して行きたいと思います。
先生から教えて頂いた大切なこと
五月十六日の解剖実習見学ではご献体いただいた先生に感謝の気持ちでいっぱいです。もうご健在ではない先生にかたり掛けるような形になってしまい、大変失礼なことと思いますが本当に有意義な時間を過ごすことができたので少しお話しさせてください。ありがとうございました。先生に出会うことができなかったら私は中途半端な知識、考え方のまま臨床に就いていたと思います。今日先生からいろいろ教えていただいたことで、更に人体の不思議さに興味を持ち、理解は深まったものの自分はまだまだだなと実感しました。正直、もっとたくさん先生から学ばせて頂きたかったです。オリエンテーションの際、白菊会の方がどのようなお気持ちでご献体を決められたのか、少し伺うことができました。その時感じたことは、私たちは今を生きることに精いっぱいでありますが、こうして変哲もない日々を何気なく過ごしている中にはほかの誰かの支えや助けのおかげで送れているのだということです。私は死後自分がどうありたいと考える前に今の楽しみや、近い将来の方を先に考えてしまいます。自分の死後まで誰かのためにありたいと考えられている方の多い白菊会の方々は自らを〝犠牲〟などと考えているのではなく、未来への希望を祈っておられるのだと感じました。先生方のお顔を見ながらこの方たちも私たちが今笑ったり泣いたりして生きていたように先生方も生きていらっしゃったのだと思うと、なんだか不思議な気持ちになるとともに、先生に〝しっかり一つ残らず拾い、勉強してくださいね〟とお話しいただいているような気がしたことをとてもよく覚えています。浅はかな知識のため、質問をしたくても質問がうまく言葉に言い表せず、悔しい思いをしました。もし、医療知識の少ない患者さんに人体の構造について尋ねられた時、今の私では無知のままで、患者さんに不安ばかりを与えてしまいかねなかったと感じます。今回、先生方から沢山のことを教えていただいたからこそ、自分の知識不足に気づくことができ、勉強しなおさねばならないのだと思いました。
初めて先生にご対面した時、触れていいのか戸惑ってしまいました。しかし担当の医学部の先生のお話を伺っているうちにどんどん頭の中にスッと知識が入っていき、時間が経つにつれて気が付くと自分から先生の心臓や肺を手に持たせていただき、大きさや構造を観察していました。また、先生方はみな一様の構造をお持ちであるのではなく、形や大きさ、構造はそれぞれ個性を持たれていることも実感しました。実際に拝見しないとわからないことが沢山あったのだと思います。実際に人体の構造を解剖見学という形で見学させていただいて、見て感動するだけではダメでそれをこれからの学びに繋げることが大切だと気づいたことに加えて、看護師は医師と同じくらい人体の構造について理解しておかねばならないのだと感じました。最後になりましたが、ご献体いただいた先生、本当に今日はありがとうございました。また、先生のご家族の方にもありがとうございましたとお伝えしたいです。今日の授業を忘れることなく、また、先生方や白菊会の方々の思いをしっかり心にとめて、これから勉強していきたいです。そしてゆくゆくは臨床での実習や勤務からも多くのことを学び、たくさんの知識を備えて様々なニーズに対応できるようなナースになりたいと思います。本当にありがとうございました。
信じる力
信頼と愛情。ご遺体から頂いたこの厚く、深い思いに心が震えた。何を期待されて、何故ご自身の身体で学ぶ機会を与えてくださっているかを考えることは、決して教科書からは得られない、看護師という社会的職業を目指すことの責務の重さを自覚させた。ご遺体が学生にしてくださった、他者を信じ、向けられた問いかけに対峙すること、その根底にある温かい愛情は、健康をとりもどそうとする患者と同じ目的のもと、寄り添うべき医療専門職者の資質そのものと感じた。
解剖見学を終えたとき、私の心には感謝の気持ちはもとより尊敬の念が沸き起こり、ご遺体の方々に聞きたいことを自問自答していた。人生の喜怒哀楽という感情を深く刻んだ唯一無二のご自身の身体を、見ず知らずの者の為に捧げる決断ができるのは、どのような方なのだろう。
契機となる何か特別な出来事があったのだろうか。自身の内なる葛藤や、ご家族からの反対等で、迷い苦しみはしなかったのか。それらを乗り越えた志を、私もいつか持つことができるのだろうか。こうして質問と思考を心の中で繰り返した後に、ご遺体の方々の共通する事として、人を信じることができる強さと、無償の愛の持ち主ではないかと考えるに至った。学生というその道を学び始めたばかりの人間に、「大丈夫。今は大いに学びなさい。あなたの目標実現に私も付き合おう。学び続けいずれその成果を社会に還元できる時がきたら、惜しみなく自信をもって行えばいい。」という寛大な懐に包まれたからこそ、信じ与えられた私の心に震えが起こったのではないか。
ご遺体に対して募らせる尊敬の念の強さは、待つことが苦手で、日々自己嫌悪に陥る私の日常生活に由来している。社会人生活を経て入学した私には、二人の子どもがいる。彼らが失敗しそうな時、黙って見守ることがなかなかできない。それは、子どもが様々なことを経験し、そこから学ぶ機会を奪っていることを十分理解していながら、あるときは親心から、また別のときは大人時間に子どもの日常をあわせるために。体験から自ら学び、感情を揺り動かされる経験を通して、迷い試行錯誤させることが成長には欠かせないと思いながらも、信頼して待つことはとても難しい。過干渉や無関心ではない、わが子とのかかわり方を思案する私にとって、献体をされた方々の思いを推し量ることは、自分とまず向き合い対話する機会を与えてくれた。また、医療専門職者として臨床でご遺体と対面するのではなく、学生として志半ばの段階でこうして学ばせて頂けたことが、非常に重要な意味を有する。
今回の学びは、ご遺族のご理解とご協力がなければ実現し得ないものであった。故人の志を尊重し、同じように私たち学生の未来と社会に信頼と期待を寄せて頂いたことに感謝申し上げたい。医療専門職者としてひたむきに成長を続け、社会に還元していきたい。
貴重な経験をして
今回、解剖実習をさせて頂くということを初めのガイダンスで聞いたとき、楽しみであるという気持ちと気を引き締めなければならないという緊張感がありました。また、ご遺体の先生方の思いに応えられるように精一杯授業を受けようという気持ちもありました。
解剖実習当日、様々な人体の構造や機能を学ばせて頂き、自分の中で新しい発見をするだけでなく、今までの知識を照らし合わせるとても良い機会となりました。自分が苦手な分野は何か、逆に得意な分野は何か実際に体験することで、今現在の自分の能力が分析出来たように思えます。
また、人体の構造・機能だけでなく、この実習を通して死についても考える良い機会となりました。授業後に千葉白菊会の会報を読ませて頂いて、その文章の中に『満足して人生を行き切ることが出来れば、死は怖いものではない』というお言葉が私の中でとても心に残りました。私は普段の日常生活において、死というものをあまり考えたことがありませんでした。あまり話題にしてはいけないものではないのだろうかと思っていたからです。そして私自身、身内の死を経験したことによって、死は怖いものという固定観念を抱いていたからかもしれません。しかし、このような言葉を見てこのようなとらえ方も出来るのだということを知りました。この言葉から、私が看護師として患者さんにして差し上げることの一つに病院生活の中でも満足した生活を送れるようにして差し上げるということがあると思いました。私はまだ看護学の専門知識が十分ではありません。満足した生活をサポートするためには、そのような知識が不可欠だと思います。そのために、これからも専門科目の授業を精一杯頑張っていきたいと思います。
最後になりますが、私がこのようにたくさんのことを学ぶことが出来、またいろいろな考え方を持つようになったのは、ご献体の方々をはじめ、ご遺族の方々、白菊会の方々、先生方のおかげです。本当に感謝しています。ありがとうございました。今回の経験を忘れず、これから自分が進むべき学問の勉強により一層精進したいと思います。このような機会を設けて頂き、本当にありがとうございました。
先生方からの無言の教え
まず初めに、解剖見学という機会を与えてくださったことに感謝をしたいと思います。また私たち学生に丁寧に解説してくださった担当教員の方々、白菊会の皆様、そしてなにより献体をしてくださった方々とご家族の皆様に深く感謝申し上げます。ありがとうございます。
見学を通し、医学的知識はもちろんですが、生命の神秘や奉仕の心を学びとることが出来ました。たった数時間の解剖見学であったにもかかわらず、その内容はたいへん濃く、終わった後はさまざまな感情で胸がいっぱいになりました。なにより、医学の発展や私たち学生の学びのために献体を希望され、ご自身の身体をもって先生となってくださった方々の気持ちを思うと、この機会を絶対に無駄にしてはいけないと強く感じました。解剖見学の前に小宮山先生がおっしゃっていた「ものやお金ではかえられないたったひとつの身体を無償で差し出すという行為は、まちがいなく最大級の奉仕である。」という言葉がずっと離れませんでした。私が目指す看護師という職業は、まさにその奉仕の心が求められていると思います。看護師は人の命に携わるという責任を背負い、身体的にも精神的にも決して楽な仕事ではありません。だからこそ、大げさかもしれませんが〝患者さんのために自らを犠牲にしてでも助けたい〟という強い気持ちがなければ続かない職業だと考えています。私は解剖見学を行うまでに、病態学や形態機能学、看護学論といったさまざまな専門の授業を受けてきました。そのなかで〝自分は本当に看護師になりたいのだろうか〟〝看護師になってやっていけるだけの強い信念はあるのだろうか〟と葛藤することがありました。看護師になりたい!と漠然と思っていた頃とは違い、実際に学んでいく中で、予想以上に難しく心が折れてしまったり、知っておかなければいけない知識が多く自分の未熟さに落ち込んだりしました。そんなときに解剖見学があり、人体の構造や機能を学んだり生と死ということも考えたりするきっかけとなりました。おかげで、〝自分は先生のように誰かのために生きる人になりたい〟と思えました。死んでしまったら終わり、ではなく亡くなってからも人のためになっている先生方は私たちに看護の精神を教えてくださっているように感じました。
私はまだ看護を学び始めたばかりで、豊富な知識も高度な技術も持っていません。看護師として現場に立てるまでに成長するには、もっともっと多くの知識とレベルの高い技術を修得することは必須です。しかし、精神面での成長は座学だけではなかなかできないと思います。解剖見学という貴重な経験を通し、看護師に必要な奉仕の心や探求心、感謝の心、生命の尊さなど多くのことを学ぶことができました。患者さんの不安やご家族の苦しみを分かち合える看護師になるには、豊かな感受性をもっていなくてはならないと思います。その第一歩を先生のおかげで踏み出せた気がします。この機会で学んだことは一生の財産であり、今後さらに学びを深めていく中で必ず役に立つと思います。先生方に背中を押していただいているように感じるので、これから誰よりも奉仕の心を持った看護師になれるよう、より一層精進していきます。
より良い看護のための深い理解の大切さ
最初に、今回の解剖学を見学させていただいたことに、献体になってくださった方やそのご家族、担当教員や白菊会の方々に心から感謝しています。ありがとうございました。
私は、将来看護職者として患者さんと関わっていこうとしていましたが、大学に入学して早一年、より専門的な知識を学ぶほど、その構造や機能は複雑になり、教科書や参考書といった二次元の図解だけでは理解しきれないことも出てきていました。そのため、今回の解剖見学では、立体的なイメージができていなかった臓器やその構造、全体的な位置関係などの理解を深めようと臨みました。
実際には、今回の解剖見学のおかげで私は、講義で学んだ知識をより深く理解すると共に、私が将来、医療従事者として相手にするのは疾患ではなく、患者さんなのだと改めて感じることができました。これまで、講義では二次元で学んでいたことを立体構造として認識することで、全体的な理解が深まるだけではなく、自分の中でイメージしにくい構造を納得した形で私の中に定着させることができました。
また、教科書や参考資料をもとにした学習では、正常な形態機能や病態の理解ばかりが先走り、身体機能の異常が起こるとどうなるのかと疾患の症状を理解することに一生懸命になってしまいました。しかし、今回の見学で献体の方の話を聞き、実際にその臓器を見学させていただき、疾患の理解で終わらせてはいけないのだと思いました。私が関わるのは疾患そのものではなく、その疾病を患っている患者であるということを、知らない内に忘れかけていたことに気がついたのです。
私が、これまで受けた講義の中で看護学原論というものがあります。その中で、看護とは患者の持てる力を最大限に引き出し、生命力の消耗を最小限にすることとありました。その講義を受けているときは、なるほど、と納得したつもりでしたが、では、実際にどんな看護をしていけばいいのかと考えたとき、対象者の全体像をしっかり理解し、その人はどんな機能が残っていて、どんなことができるのかをわかっていることが前提に無くては、看護は出来ないのだと思いました。形態機能を学ぶことは、看護をする上での必要最低限の知識であり、それを理解しただけではなく、実際に関わる人の状態に当てはめながら応用していかなければ、看護はできないのです。
例えば、ある異常を抱えた人がいて、その人が不安に思っていることがあり、それを相談されることがあるかもしれない。その人に対して専門用語を並べた言葉や曖昧な知識を返してしまっては、その人の不安が取れることはありません。精神的な面は、自律神経の働きに影響を与え、全身へ反映してしまいます。これでは、患者の生命力の消耗を最小限に抑えた看護とは言えないのです。
学年が上がり、形態機能学や病態学、代謝栄養学など人の身体機能を専門的に学ぶ中で、私はその知識を得ることが精一杯で、あくまでも対象は人であるということまで考えが及びませんでした。自己満足な表面的な理解を広げていくのではなく、なぜ、どうしてと言う裏付けまで、自分でできるような知識をつけ、今後関わる患者さんの持てる機能を最大限に活かした看護につなげていきたいと思います。
手のぬくもり
私は人体解剖の見学ができると知ったときからその日を楽しみにしていました。医学部しか解剖に関与することはできないと思っていたので、貴重な体験ができることを有り難く思いました。怖いとか不安といった気持ちはありませんでしたが、解剖室に入ってご遺体にかけられていた白い布がめくられるときはとても緊張しました。初めは、ノートを一生懸命とろうとしていましたが、臓器に触れて体で感じたほうがよっぽど学びになるということでメモを取ることをやめて、たくさん触れさせていただきました。初めて人の体の内部を見て、体の構造や臓器の大きさ、重さを感じ、今まであやふやだった人体のつくりを鮮明に頭の中でイメージできるようになるのが分かりました。臓器を見て触っているときは好奇心が勝り、一つ一つの臓器を単体で、ある意味、モノとして見ていました。
しかし、手に触れたとき何かが心にジーンとくるのを感じました。言葉ではうまく言い表せないのですがハッとさせられたというか、その人の生を感じました。「あぁ、生きていたんだなぁ」と。その手で食事をし、仕事をし、誰かの手を握り…、どんな経験をしたかは分からないけれど、誰かを愛し、誰かに愛されていたと思うと、臓器単体ではなく、その人のすべてを意識するようになりました。そして、献体することの凄さに気付きました。私は生命の活動が終わった後に体を開かれて他人に自分の内部を見せることができるか考えました。答えは否でした。
将来、考えが変わるかもしれませんが、やっぱり、無傷で生きたのに最後の最後で体にメスを入れられるのは怖いと思います。私は改めて今回解剖見学できたことの凄さを想い、世の中でいったい何人の人が本物の人体内部を見ることができるのか考えました。私は自分の目で人の全体を見た人間として、恥じないように生きたいと思いました。あんなに複雑で精密な作りをしている体をコントロールして何十年も生きること、それより前に生まれるということ自体が奇跡です。
だから生まれてきた命を無駄にしないで精一杯生きよう、自分の体に感謝してもっと大切にしよう、他人のことももっと尊敬して大切にしようと思えました。
私は助産師になりたくて看護学部を選びました。これから多くの命に向き合い、たくさんの手に触れると思います。そのひとりひとりに対して出会えたことに感謝し、私ができる限りの看護をしたいと思います。
たくさん体を見せ、触れさせてくださり、本当にありがとうございました。ご家族の方も大切な方を私達に会わせて下さり、ありがとうございました。多くの人の思いを胸に、立派な医療職者になります。
献体に感謝の意を忘れずに 看護学部三年
私は今回の解剖学実習に臨む前、とても緊張していました。先輩から話は聞いていましたが、実際にご遺体である献体を前に、人体の学習をすることに不安や恐怖とも言い難い、漠然とした思いを抱えていました。実習の前に、先生が講義で千葉白菊会の話をしました。どのように千葉大学へご遺体が献体されるのか、千葉白菊会がどのような活動を行っているのかなど詳しく知ることが出来ました。話を聞き、私が解剖学実習に怯えていてはいけない、感謝の気持ちをもって実習に臨まなければいけないと強く感じました。
千葉白菊会は発足当初、献体登録者は十一名という解剖実習をするのにはとても少ない数であり、会員の方々が献体者の確保に奔走したということをお聞きしました。しかし、発足から五十年経った現在の献体登録者は二千人前後であると聞き、とても驚くと同時にこれほど多くの方々が私たちの学習のために、また医療の発展のために尊い志を持っているのだと感じ、感謝の気持ちでいっぱいになりました。また、献体された方々は皆、「無条件・無報酬」であると聞き、その崇高な理念に尊敬の念を抱きました。私たちはこれほど多くの方々の尊い協力の下で医療者になるため学習しているのだという気持ちを忘れてはいけないと強く感じました。
また、今まで何気なく通り過ぎてしまっていた献体の碑。今回千葉白菊会のお話を聞いて、今まで何も考えず通り過ぎてしまったのが申し訳なく感じました。
解剖実習の前に初めて隅々まで見ることになりましたが、多くの方々の名簿が奉納されているのだと知り、深く頭を下げました。今後も前を通ることが多いと思
います。その時には必ず献体された方々を偲び、一礼をしようと決めました。
今後も医療の発展に向けて、医療者をめざす私たちは献体の力をお借りして学習をすることがあると思います。千葉白菊会の会員の方々のような多くの人の協力により、私たちが成長できるのだと忘れずにいたいと思います。千葉白菊会の活動理念でもある、医療者の教育・発展に繋がるだけでなく、真に優れた医学・医療人になるための人間的成長の資するものとなるように、私たちも感謝の意を忘れず、学んでいきたいと思います。今回はご遺体の献体をありがとうございました。今回の解剖学実習で学んだことの多くを自分の中でしっかり知識として培い、将来の医療のために役立てていきたいです。そしてより多くの方々の命を救い、私自身も医療に貢献していきたいと強く思います。
頂いた恩を返すために 看護学部三年
人体解剖見学を迎えるまで約一年半、形態機能学や代謝栄養学、病態学などで人体の構造と機能について学習を進めてきました。様々な参考書で臓器の構造の絵を見たり、病態学の授業で各臓器の病変をスクリーン越しに見たことは何度もありましたが、臓器が体内に収まっているところをみたり臓器に触れたりする機会はもちろんなく、この人体解剖見学が初めてでした。解剖実習は約三時間と短い時間でしたが、とても充実した有意義な時間となりました。
印象に残っていることとして、実際に心臓や肺などに触れてみたことや、実際に人体に臓器や神経、血管などがどのように収まっているのかを観察できたことが挙げられます。これらの経験によって、これまで紙面上もしくは頭の中でのイメージであった解剖生理の知識が三次元に、より立体的に捉えられるようになりました。加えて、一緒に解剖見学をした学生と各臓器の特徴について意見交換できたこと、先生方から普段の授業よりもさらに詳しいお話を聞けたことによって
さらに学びへの意欲が湧きました。
解剖見学の前に行われた講義で、白菊会や献体の流れについて学びました。「医学・医療の教育・研究のために、『無条件・無報酬』で自分の遺体を預ける」という方針をお聞きした時、私はこれから自分の体を献体に使ってもらおうと思えるのだろうか、と考えてしまいました。そして同時に、医学の発展に寄与したいというご献体くださった先生方の強い意志を感じました。解剖見学を担当してくださった先生が、「お体を提供してくださった先生に頂いた恩は、先生にではなく、将来看護職に就いた時に患者さんに返しなさい。ご献体くださった先生もそれを望んでいます」とおっしゃったのを記憶しています。頂いたご恩をしっかり今後看護職としてかかわる人々に返せるように、今回得た貴重な経験を最大限に活用し、学習を進めていこう、と強く感じました。
このような貴重な学習の機会を与えてくださったお体を提供してくださった先生と、そのご家族、白菊会をはじめとする関係者の方々、そして各臓器について
余すところなく丁寧に説明してくださった先生方に心から感謝いたします。ありがとうございました。
患者さんの人生と向き合うことを忘れない 看護学部二年
はじめに、今回人体解剖見学という貴重な経験をさせて頂いた白菊会の皆様に御礼申し上げます。解剖見学実習の前に、私たちは授業担当の先生から、ご遺体の先生方が医学の発展や教育のために何も見返りを求めずにお体をささげて下さっていること、かつ、皆様は献体ができるように健康や事故に気を付け生前過ごされ懸命に生きていたということを聞きました。また、ご家族の方々もそのご意思を尊重し献体に協力して下さっているというお話もありました。私はこのお話を聞きながら、自分だったら出来るだろうか、家族が希望したら反対せずに送り出せるだろうか自問自答を繰り返しましたが、やはりなかなか決断できないだろうと思いました。不安や心配、そして悲しみの中、献体に賛同されたご家族の皆様には感謝と尊敬の念でいっぱいです。
見学日当日、そんなご家族の方や献体頂いた先生方の思いを無駄にしてはいけないという思いと緊張を持ちながら、人体解剖見学に参加させて頂きました。実
際に臓器の構造を目の当たりにし、そして触り、その緻密さに驚くとともに今まで教科書では学びきれていなかったことを知ることが出来ました。
しかし、そのような学び以上に、今回の人体解剖見学によって看護師とはどんな仕事なのかと改めて考える機会を与えて頂いたと感じています。保健師助産師看護師法には、看護師とは「疾病者若しくは褥婦に対する療養上の世話または診療の補助を行うことを業とする者」とあります。これの通り、私たちは夏から始まる病院実習を前に、現在たくさんの看護技術(寝衣交換・採血・導尿など)を学んでいます。細かく様々な手技を覚えていると、その手技を丁寧かつ迅速にできることが目標のようになってしまいがちの毎日を過ごしていました。しかし今回、人体解剖見学をさせて頂き、実際にご遺体の先生方と対面したことで、看護師とは「命」や「その方の人生」と向き合う職業なのだと改めて感じることができ、身が引き締まる思いがしました。先生方のお顔を見て、唇に少し残る口紅を見て、その方の人生や背景を想像しました。きっと家族を大切にしたり、大切にされたり、友人と遊んだり、楽しいことや辛いこと様々な思いで今まで過ごされてきたのだろうと思うと、私たちと同じように誰かにとってとても大切な方であり、誰かを大切に思っていた方だったのだと感じられました。
看護師になり多くの方々と向き合うことになると、その方に背景があることを忘れて業務としてケアを行いがちになってしまうかもしれませんが、今回のこの思いを忘れずに一人ひとり、誰かにとって一番大切な人にケアをしているということを忘れずにいようと決意しました。私は、この貴重な経験をずっと忘れないと思います。
最後に、ご献体頂いた先生方のご冥福をお祈りするとともに、長い間ご遺体を大学に預けて下さっていたご家族の皆様に改めて御礼申し上げます。本当にありがとうございました。皆様の思いを無駄にしないよう、良き医療者になれるよう努めていきます。
恥じない人生を 看護学部二年
扉を開けると冷たい風が私の肌を刺激した。ああ、ついに始まるんだと思った。半年前、人体解剖を見学しますと聞いたときは全く想像がつかなかったが、白い布で覆われた先生の姿を目にしたとき、それは強い不安と少しの好奇心に変わった。そんな気持ちの中、先生方と対面すると、私の立ち位置の関係もあり一番にそのお顔が目に入った。とても穏やかな表情で眠られている姿を見て、その場所だけがかつての時間のまま止まっているかのような不思議な感覚にとらわれた。私は看護学部に来たんだと改めて実感した。
実際に見る神経や臓器は想像していたよりも大きく、その方が生きてこられた強さを感じた。同時に、私たちのために自らの体をもって知識を授けてくださった先生方に、心からの敬意と感謝の気持ちがこみ上げた。実際の見学時間はあっという間であった。説明を聞きながら目で見て、実際に触れる。手に伝わる重量感と初めての感覚。教科書で見た曖昧なイメージが具体的なものに変わる瞬間。そこには使える全ての感覚を使い、最大限学ぼうとする自分がいた。思えばこんなに授業に興味を持ったのは初めてな気がする。
私は、姉が現在四年生に在籍しており、姉がいると楽だからという理由で大学も学部も決めてしまった。そのため周りの友達に比べて意欲が足りないことを常に感じ、同時に私がここにいることにしばしば負い目を感じていた。合格したのが私ではなく違う子であったら…そう思うことが多々あった。しかしこの実習を通して、私はやっと自分がここにいる意味を見つけられた気がする。まだ将来どんな分野に行きたいのかわからない。何に興味があるのかもわからない。ただ誰かを救いたい。漠然とそう思った。
私にとって亡くなった方を見るのは今回で二回目である。小さい頃祖父が亡くなって以来、死という存在は遠く、無縁とでも感じられるものであった。そんな
得体の知れない、恐怖の対象を受け入れた先生方を前にしたとき、私も精一杯生きなければならないと思った。先生方はいわば死に勝った方。最大の恐怖を受け止めた方。そんな存在を前にして恥ずかしい生き方はできないと思った。同時にこれから私が歩むであろう道には、死を身近に感じながら生きておられる方がたくさんいるだろう。生きたいのに普通の人のように生きられない方、愛する人を残して逝かなければならない方。そんな人たちを支えたい、救いたいと思った。
今の私にできること。それは今回の学びを自らの血肉とすること。今後もこの経験を生かすこと。目的を見失わないこと。言い出せば数えきれない。でもいつ
か先生方を前にしたとき、「自分は精一杯生きた」そう胸を張れる人間になりたい。
学びと気づき 看護学部三年
私は今回の初めての解剖見学を、貴重な機会への期待と様々な緊張感とともに迎えました。そしてこの経験はこれまでのどの学習よりもリアルで、記憶に残るものであり、教科書や講義だけでは得られないことを学ばせていただきました。貴重な機会を与えてくださった方々に感謝申し上げます。
実際に目にした人体の内部は、想像以上に多くの組織で構成されており、複雑で、すぐに普段見ている分かりやすく表現された図や模型との違いを感じました。実際の臓器を見たり触れたりしながら、なぜそのようになっているのかという解説を聞くと、これまで学んできた文章の知識を具体的にイメージすることができました。また、形態や構造に関する知識と、生理機能に関する知識を繋ぎ合わせて考えることの重要性も感じました。
様々なことを学ばせていただいたことに加え、自分の知識不足、理解不足を痛感する機会ともなりました。見学中に、各臓器の位置関係や機能などについて問われると答えが浮かばないことが多々あり、これまで学んできたはずのことが定着していないことを突き付けられました。人体の構造について、またそれぞれの臓器の働きによって行われる生理機能について、改めて学習し直す必要があると感じました。その際には、今回観察させていただいたことと重ね合わせ、自分の見たものと結びつけて理解することで、これまでのただ知識を覚えるだけの学習から脱することができると思います。
見学の最後に教授が仰っていた、「平面しか見たことがない人はいつまで経っても人体を立体的に思い描くことができないが、一度でも実際に見たことがある人はそれができる。」という言葉が印象に残っています。これまで図や模型でしか見たことがなかった人体を、今の私たちは立体的に描くことができます。それは、患者さんをより深く理解し、向き合うことだと考えました。
今回の経験は多くの事を学び、医療者を目指す者としての責任について考える機会となりました。改めまして、学生のために献体することを選択してくださった方々、そしてそのご家族に心から感謝いたします。医療の質が向上するようにとの願いを託された身として、精一杯励んでいきたいと思います。
解剖見学で実感したこと 看護学部三年
まず始めに、千葉白菊会の皆様、この度は大変貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。今まで教科書や画面上での二次元的な媒体でのみ身体のつくりを学習してきた私にとって、今回の解剖見学は身体のつくりを知るだけでなく、白菊会や献体の手続きの流れについて知ったり、献体の方が亡くなる前について考えたりするなど、さらに深い学びとなりました。
私は今回の解剖見学で、どのような方だったのか、どのような病気があったのかを意識しながら、臓器や血管、神経などをよく見てこようという意気込みでいました。ただ、実際にはご遺体を目の前にすることが不安でもありました。しかし、私たちの学習のためにご遺体を提供させていただくので、しっかりと隅々まで見て学んでこよう、と強い意志と期待を持って臨みました。
実際に解剖された身体を見てみると、これまで二次元的に見てきて頭の中で想像していた身体のつくりとは大きく違う点がたくさんありました。印象に残っているのは、皮膚や脂肪、筋層の作り、主要な神経や血管の太さや走り方、血管や臓器の柔らかさ、心臓や脳の重さです。皮膚や脂肪、筋層の作りは、教科書で見ていた順番に本当になっている、ということを実際に見ることができてとても感動しました。主要な神経や血管の太さや走り方では、心臓から出ている血管が心臓の真横ではなく背部の方に出ていることや、主要な神経が思っていたよりも太かったことが印象的でした。また、血管や臓器の柔らかさは、動脈はゴムのような弾力があることや、肺はマシュマロみたいな柔らかさであったことが印象的でした。実際に触ってみなければ教科書的な表現しかできず、実際に体験することで自分自身の感覚を持つことができると実感しました。
今回、実際に身体のつくりや臓器を見たことで、身体の構造について今後、よりイメージしやすくなったと感じました。このことは、今後臨床に出たときに患者さんの身体の状態を把握してイメージし、看護することに非常に役立てることができると思います。そして、実際に見て、触れてみないとわからないことが多くあると実感したと同時に、自分の知識のなさを強く思い知りました。先生方からの問いかけで答えられることが少なく、少ない知識量で解剖見学に臨んでしまったことが唯一の心残りとなってしまいました。今回の解剖見学からは学んだことが非常に多く、今後また二次元的な媒体での学習に戻るので、三次元的に見て学んだことを教科書など二次元的なものと照らし合わせてイメージのギャップを埋めていき、知識を確実に修得したいです。
最後に、今回の解剖見学は今後の私の看護師としての人生にとって非常に有意義な体験となりました。今回の体験を生かせるよう、努力していきたいと思います。本当にありがとうございました。
解剖見学を通して学び得たこと 看護学部二年
私はこれまでの人生で人の死というものを直接見たことがなかったので、解剖見学で初めて死を迎えた人間を見ることとなった。静寂とした空間の中に、白布を被せられたご遺体がずらりと並んでいた。時が一瞬止まり、異空間に放たれているような感覚に陥ったのと同時に、死と対面することで、これまでにない恐怖を覚えた。同じ空間の中には、死を迎え横たわっている人間がいる一方で、私の周囲を見渡すと、息をしながら立っている生きた人間がいた。生と死が隣り合っているように感じた。そして、ずらりと並ぶ先生方はどのような人生を送ってきたのか、生前、どのような思いで献体を決意してくださったのか、家族はどのような思いで献体を認めてくださったのかという問いが頭に浮かんだ。解剖見学の事後に、千葉白菊会会報を拝見し、献体を決意して下さった方の献体登録の動機を知った。献体登録をして下さった方々は、「人生最後に自分以外の人の為に何ができるのかを考えた」や「医学を志す人達が優れた医療教育を受け、学識・人格を身に付けるため、医療分野で活躍する人達のために少しでも役立てることを思った」などの理由で、献体を決意されていた。人のため、医療の発展のために、ご自身の身体を提供しようと思ってくださる方々がいることを知り、この世界にはなんて心優しくて、他者を思いやる気持ちを持った人がいるのだろうと思い、とても温かい気持ちになった。献体を決意された方と献体を認めてくださったご家族の思いを胸に、私は医療に携わる者として、たくさんの人を助け、人の役に立てる人間になりたいと思った。このように、解剖見学を通して、まず、医療従事者としての心構えを学ぶことができた。
解剖見学の授業では、人体の構造を目で見て、臓器に手で触れながら、体のつくりを学習した。教科書でしか見たことのない人体構造を実物で確かめることができるとても貴重な経験となった。平面的にしかイメージできていなかった人体構造を立体的に理解することができ、実際の各臓器の大きさや重さ、位置関係などを正確に知ることができた。精巧な臓器を見て、人間の体はよくできているなと感じた。心臓を自分の手の平に乗せたときは、生命の尊さを感じ、実際の重さ以上にずっしりとした感じがした。また、臓器は個体差が生じ、特に肺の大きさや色は個体ごとに異なっていることがわかった。肉眼解剖見学を通して、臓器の個体差や立体的に人体構造を学ぶことができ、人体構造の理解をより一層高めることができたと思う。
以上が解剖見学を行って得た学びである。この経験は非常に印象に残るもので、一生忘れることのない経験となるだろう。医療の発展のため、私たち学生にご遺体を提供してくださった方々への感謝の気持ちを胸に、立派な医療従事者になることを固く誓う。
解剖見学を終えて 看護学部二年
将来医療者を目指す学生の勉学のために、献体してくださった皆様、またそのご遺族の皆様、この度は本当にありがとうございました。今回解剖見学を通して、多くのことを学ぶことができました。このような大変貴重な経験をさせていただくことができたのは、何よりも献体してくださった方々のご協力のおかげであると感じております。
実際にご遺体を見学させていただく中で強く印象に残ったことは、同じ臓器でも色や形、大きさが同じものはなく、体の中のつくりにも個人差があるということです。私たちは学内演習の中で、気管挿入や注射、浣腸などの練習を模型や学生に対して行います。その際、解剖学の教科書や提供された動画などで体内を想像し練習を行うのですが、今回ご献体の方々の緻密な血管や神経の走行、臓器との位置関係などを観察させていただき、自分のイメージがどれほど不正確で曖昧なものかを実感させられました。それと同時に私は看護のそうした手技が目の前の患者さんを傷つける恐れのある注意すべき医療行為であることを改めて認識するとともに、少し恐ろしくなりました。確かに人体構造の普遍的な部分はあると思いますが、個別的な部分についても忘れてはいけないことを改めて実感しました。そして、そうしたことが医療事故につながりかねず、患者さんの一生を奪うことになってしまうということも常に自覚しなければなりません。もちろん教科書や動画教材を通して人体の構造を学習することはできます。しかし、人体には各々異なる点があり、決して標準的な人体構造を暗記するだけでは対応しきれないこと、筋肉、骨、血管、神経など身体を構成する全ての要素が連続的に重なって人間の機能は形作られていることはご遺体を見学させて頂いたからこそ理解しえた点でした。
私たちは献体してくださった方々の生前のお姿を知ることはできません。しかし、手に取って観察させていただいたそれぞれの臓器の重みから献体の方がどんな人生を生き抜き、何が好きで、どのようなことを経験したのか考えずにはいられませんでした。ペースメーカーや尿道カテーテルの手術痕の様子からその方がどのような治療や看護を受け、何を思い、感じてきたのか思いを巡らせました。そこから目の前にいるご遺体の生きた証を改めて強く感じ、私たち医療職は一人ひとりの生き方を尊重した医療を提供するために最善を尽くしていかなければならないと、改めて実感しました。
献体してくださった皆様が自らの身体を捧げて私たちに教えてくださった貴重な学びは、多くの命と向き合う看護職者として医療の発展に貢献する覚悟を固める機会を与えて下さいました。最後に今一度、献体してくださった方々ならびにご遺族の皆様に心より深く感謝申し上げます。ご自分の身体を提供するという決断、そしてその決断を尊重し受け入れるということは並々ならぬ勇気がいることだったと思います。今回の解剖見学を通して、皆様のご期待に応えることができたとはいえないかもしれませんが、これからも勉学に励み続け、良い看護師となり社会に貢献することで皆様へ恩返ししていけたらなと思っております。本当にありがとうございました。
自分の気持ちと向き合うこと 看護学部二年
この実習の間に一度だけ、先生(ご遺体)のお顔を実際に拝見した。その瞬間に「ああ、本当に生きていた人間なのだ」という実感がわいてきて涙が出た。その時の自分の感情は良くわからない。先生方が怖かったわけではなく、不気味さを感じたわけでもなかった。その時初めて人の死というものを身近に感じ、死というもの、そのものに恐怖を感じたのかもしれない。これまでの私の人生で身近に人の死をまだ経験したことがなかった。先生方の死を目の当たりにして、生きていたのだなということの尊さを感じた。本当の人がなくなっているという事実が私にはまだ受け入れがたかった。死んでいるということは生きていないということで、生きているからこのような複雑な感情が生まれてくるのだと思った。先生のお顔は穏やかで、長い人生を歩んできたことを感じさせるものであった。それは幸せなことだけでなく、苦しいこともあったと感じさせるが、確かに同じように生きていた人であった。
今回の先生方は皆女性で、高齢のようだった。私のこれまでの勝手なイメージとして、高齢の女性は骨ももろくなりやすく、痩せている人が多いのだと思っていた。確かに、先生方の手足は細かった。しかし、その重さは決して軽いものではなかった。それはとても重かった。細い先生方の身体の中に、内臓はぎっしりと詰まっていた。それぞれの臓器の重さを実際に感じてみて、先生方は全く軽くなかった。筋肉は分厚かった。全然薄くなかった。一生懸命、身体の中に目一杯に詰まった臓器や細胞たちが一人の人間を生かすために動いていたことを感じた。生きることは重い事であった。
もう一つ、この実習で気づいたこととして、今回、4人の方のうち3人の方の子宮はすべて摘出されていた。このことは非常に衝撃的であった。健康で一生を終えれば子宮は体内に残っているものだと思っていた。今回の先生方の生前の病態は分からないが、健康に生涯を終えることの難しさ、女性にとって生涯における子宮との向き合い方について考えさせられるものとなった。
解剖体験は誰でも経験できるものではなかった。看護の世界に入っていなければ、千葉大学に入学していなければ一生でこのような機会はなかった。正直に言ってこの実習は自分にとって人体への興味や畏敬の念以上に、死の重みを感じる苦しい経験であった。それと同時に、生きることの重みも知り、生きている人に対して、人間に対しての尊さを大きく感じるものであった。これはこれからの人生において、人を大切にしていくことが自分にはできるのではないかと思わせてくれるものである。この体験をこれから先の人生で振り返った時、その意味はそのたびに変わっていくのだと思う。自分の気持ちに逃げることなく向き合いたい。たとえ答えは出なくても、思考の過程から得られるものがあると学んだ。看護に迷う時、人生がみえない時にはこの体験を思い出そうと思った。
今回、諸先生方の御厚意で平成二十六年三月三十日に千葉大学で開催されましたBKP(Ballon Kyphoplasty 経皮的椎体形成術。皮膚から針を刺して脊椎の骨折部に直接セメントを注入する手技のこと)セミナーに参加させて頂きました。
近年の高齢化社会においては骨粗鬆症や悪性腫瘍患者が増え、それに伴い脊椎圧迫骨折が激増しております。患者の疼痛やADL(日常生活に必要な基本動作のこと。立つ、歩く、食べる等々)障害をきたし結果的に死亡率も上昇させているとのデータも存在しており、脊椎外科医としてBKP手術の手技を習得して行くことは非常に重要な課題であると感じておりました。しかし、私自身、BKP手術の経験がなく今回のセミナーには絶対に参加させて頂きたいという強い思いがありました。
当日は、まず鈴木崇根先生によるCAL手術室や解剖に関する専門的な御講義があり、その後、BKPの適応、手術手技、合併症、トラブルシューティング等に関する詳細なレクチャーを受講しました。午後からはCAL手術室に移動しましたが、Cアーム(レントゲン透視装置。骨の状態を写真ではなくビデオで確認しながら手術を行う)や手術台、手術用照明等、その整った環境にとても驚きました。千葉大学の恵まれた環境に感謝しながら、全員で御献体に対し黙祷させて頂きました。大鳥先生によるデモンストレーションの後に2グループに分かれ実技演習に入り、胸腰椎に対する経椎弓根アプローチ、椎弓根外アプローチ(椎弓は脊椎の一部。針の通り道が椎弓根の中か外かの違いを示す)を、実際の手術を想定し多くのディスカッションを交えながら施行しました。手術手技に関しては無駄が少なく確立されており低侵襲であると改めて実感しました。椎体の矯正効果も十分であり、適応や有害事象を十分考慮した上で今後積極的に実臨床に生かしてきたいと思っております。
最後になりますが、セミナーの御準備や御指導をして頂きました大鳥先生、鈴木崇根先生、折田先生はじめ多くの先生方に感謝申し上げます。そして何より、CALの理念をご理解頂き献体頂きました白菊会の方々には心より御礼申し上げます。誠にありがとうございました。
BKP(Balloon Kyphoplasty)資格取得キャダバーセミナーに参加して
2014年3月30日,千葉大学Clinical Anatomy Labにて脊椎圧迫骨折症例に対する低侵襲な治療法であるBalloon Kyphoplasty(経皮的椎体形成術)の資格取得セミナーが開催されました。BKPを臨床において実施するためにはドライボーン(骨模型)もしくはキャダバー(新鮮凍結遺体)を用いた講習が必須となっており、特に胸椎へのBKP実施にあたってはキャダバー講習が必須となっています。
これまではアメリカや韓国、タイなど海外に渡航しなければ受講できなかったキャダバーセミナーが国内、しかも千葉大学医学部で実施されるようになったこ とは画期的なことであり、CALスタッフの先生方、およびセミナーの趣旨に同意し賛同して頂いた白菊会の方々には改めて御礼申し上げる次第です。今回取得した資格をもとに千葉大学脊椎グループの臨床レベルが一段と向上し、患者さんのさらなる利益に寄与することを祈念しております。
脊椎手術手技セミナーに参加して
2013/11/17 手術手技セミナーに参加させて頂きました。
今回のセミナーは私の曇った目を拓かせて頂くに十分過ぎる価値のあるものでした。
まず学生時代の解剖学実習以来となるご遺体と接した刹那、高貴なる御意志で御自身の身体を献じて下さった方への畏敬の念が溢れ、またこうした無数の御意 志によって今日此処まで生かされて来た事を肌で感じ、思わず襟を正さずにはいられませんでした。これから展開される総ての場面を刮目して見、本日授けられる叡智の総てを脳裏へ焼き付け少しでも還元して行く、その一心で黙祷しました。
セミナーの内容ですが、胸椎と腰椎の手術を一例ずつ、日頃脇で漫然と見ていた脊椎の手術の基本的な展開や除圧、固定に至るまでを道具の扱いから分かり易
く丁寧に御指導いただき、要所のポイントや注意点など、豊富な臨床経験からしか得られない貴重な御意見を随所で賜りました。ご遺体も予想とは異なり、出血
が殆ど無いという一点を除けば生体と変わらない条件で執刀させて頂き、普段と全く異なる緊張感と高揚感で気付けばあっと言う間に一日が終了しました。久々 に貪欲な自分に巡り逢えました。
一言で言えば極めて有意義であったこのセミナーを企画し、熱心に御指導下さった折田教官始め頸椎・腰椎グループの諸先輩方に、そして繰り返しになりますが私を今日の私たらしめた総ての御好意に心からの感謝を申し上げます。
TESのアプローチに貴重な経験 整形外科
二〇一七年七月三十日に今回で三回目となる筑波・千葉Cadaver Workshopに参加しました。筑波大学からは若手から山崎教授まで全部で十二名の脊椎外科医
が参加させて頂きました。私は、昨年に引き続き二回目の参加です。
Workshopは、まずクリニカルアナトミーラボの鈴木崇根先生から現在の我が国の解剖の現状、問題点などについて説明を受けた後、ご遺体に黙祷を捧げ、解
剖を開始しました。今回は若手を優先して実習を行うということで、午前中は医師六年目で今回の参加者の内最年少の伊澤先生が胸腰椎の前方アプローチの執刀
をされるのを見学しました。
午後になり、私が執刀する番となりました。現在外来で診療している患者さんの中に胸椎の骨巨細胞腫という骨腫瘍の患者さんがおります。今後の治療方針と
して、腫瘍脊椎骨全摘術(TES)を検討しており、その手術を安全に確実に遂行するために、ご遺体でTESのアプローチを勉強させて頂きました。
事前に教科書で予習をしてから臨みましたが、執刀してみると思っていたよりも展開を外側まで広げなければならないこと、肋骨頭を完全に切除しなければな
らないこと、T‐saw(骨を切るための特殊な器械)の実際の使い方、椎体側壁の剥離の仕方、椎体の摘出の難しさなど、実際に触ってみなければわからないことがよくわかりました。山崎教授から手術のコツをたくさん指導頂くことができ、本当に勉強になりました。
これまでに前後合併(背骨の前方と後方を両方手術すること)のTESは助手の経験はあるものの、後方単独のTESは経験がまったく無く、とても良い経験となりました。今回のCadaver Workshopで得られたことが、実際の手術の際に必ず患者さんに還元できるものと感じました。また来年も機会がございましたら是非参加させていただきたいと思います。
最後に、クリニカルアナトミーラボを運営し、この貴重な経験をさせていただいた千葉大学の鈴木崇根先生、ご準備くださいました古矢丈雄先生をはじめとし
た千葉大学頚椎班の先生方、ご指導いただきました指導医の先生方、そして何よりご献体いただきました白菊会の皆様に心より御礼申し上げます。
ASSET2017 in Chibaに参加して 千葉大学大学院医学研究院救急集中治療医学
私は医師になり十年目、救急医となって八年目です。救急医は、内科的疾患から外科的疾患にいたる広い範囲の患者さん達の診療にあたっており、外傷患者さ
んの治療も数多く行っています。外傷患者さんの怪我の程度は様々ですが、大きな交通事故や、高所からの転落事故などでは、出血が問題となります。患者さん
の救命のためには、出血を迅速かつ的確にコントロールすることが必須であり、我々救急医は、そのための技術を日々磨いていく必要があります。今回私は、千
葉大学にて行われた第三回ASSETコースに参加いたしました。
ASSETコースは、外傷において致命的となる胸部、腹部、頚部、四肢の血管損傷に焦点をあて、主要血管への迅速なアプローチを習得するためのコースです。事前学習をした上で、当日は講義に続いて実習に臨みました。中でも、心臓や心臓周囲の血管へのアプローチはとても有意義なものでした。臨床の現場において、心臓周囲の血管へのアプローチはとても有意義なものでした。臨床の現場において、心臓周囲の血管に対する迅速な処置が必要な状況は多くありません。しかし、それらにアプローチし止血をしなければならない患者さんは最重症であるため、より迅速かつ的確な処置が必要です。ASSETコースでは、そのような手技を再確認できたのと同時に、周囲の組織、肺や神経、気管などとの位置関係も入念に確認できました。また、これまでの臨床で疑問を感じていた部分に関しても、このコースを通して振り返ることができ知識が深まりました。
今後は、この経験を臨床の現場で活かして、より多くの患者さんの救命を目指すのは勿論のこと、今回得られた知識と技術を後輩医師にも伝えていきたいと思
います。
今回、このような貴重な機会を提供して下さった白菊会の皆様を始めとする関係者の方々に心から感謝を申し上げます。
日ごろの疑問解明に大きな前進 整形外科
二〇一七年十二月二十二日、二十三日とクリニカルアナトミーラボでのセミナーに参加させて頂きました。講師には東北医科薬科大学 小澤浩司先生、新潟脊椎外科センター 長谷川和弘先生が招かれご指導頂きました。
二十二日は長谷川先生から胸腰椎前方手術、小澤先生からは矯正骨切り術を中心とした講義を受け、翌二十三日は環境生命医学 鈴木崇根先生からCALと実習に関する講義を受けたのちにクリニカルアナトミーラボでの実習となりました。
実習の始めにご遺体に黙祷を捧げ、午前は小澤先生の骨切り術、午後は長谷川先生の前方手術をご指導頂きました。どちらの手技も自分にとっては経験の浅い
手技であり、講師の先生の丁寧な実演は大変貴重なものでした。最後に全員で黙祷を行い、実習終了となりました。臨床では一つの操作が大きな事故につながる
脊椎の手術ですが、このような解剖の場でしか学ぶことができない部分が数多くあり、日ごろから抱いていた疑問や自身の中で足りなかった理解をより深く学ば
せていただきました。
我々実習を受ける側にとってはこの上なく貴重な体験でありますが、これだけ大きなセミナーを運営することは並々ならぬ労苦を伴うものだと感じました。こ
のセミナーを運営されている大鳥精司先生、稲毛一秀先生並びに千葉大学整形外科学の皆様、鈴木崇根先生を始めとする環境生命医学スタッフ、そして医学教育
にご賛同頂いたご遺体とそのご家族、白菊会の皆様に深く感謝申し上げます。
手術室看護師六名で受講 千葉大学医学部附属病院手術部看護師
今回のCadaver Workshopには手術室看護師六名が参加させていただきました。六名のうち三名は直接介助未経験の看護師で構成させており、緊張と不安が混じる中でのセミナーとなりましたが、参加された先生方の講義や手術機器業者による機器取り扱い方法の説明など、普段の手術中では聞くことのできなかった数多くの学びを教えていただく事ができました。
中でもWorkshopを実施する前に行われた鈴木先生の献体に関する講義は非常に興味深く、献体・解剖において数多くの法律が関わっていた事や教育の意義な
どを再認識する事ができました。このような貴重な機会にお声掛けいただきました整形外科の先生方、献体くださった白菊会の皆様には心から御礼申し上げます。
千葉大学整形外科Cadaver Workshop <Knee>~Basic~に参加して 整形外科
今回、私は千葉大学において開催された膝周辺の解剖を学ぶCadaver Workshopに参加させていただきました。今回のCadaver Workshopでは大学のスポーツ整形グループの先生方のご指導のもと、前半は膝関節鏡の基本的手術手技を、後半は膝周囲と足関節周囲の解剖を中心に勉強させていただきました。ほとんど経験のない関節鏡手技を学べたこと、実際の手術器具を用いて解剖をさせていただいたことは大変貴重な経験となりました。関連病院で助手として様々な手術に入らせていただく機会は多くありますが、今回のWorkshopでは執刀する立場になることで、術者が注意すべきポイント、助手の役割が数多くあることを実感しました。
最後に、ご指導いただいた佐粧先生、赤木先生をはじめ、CALの鈴木先生、スポーツ整形グループの先生方にこの場をお借りして御礼申し上げます。このような貴重な機会を与えてくださいました白菊会の皆様、ご遺族の方々に深く感謝申し上げるとともに、この経験を今後の臨床に活かせるように精進して参ります。
この経験を活かし、日々精進 千葉大学医学部附属病院リハビリテーション部
平成二十九年七月十五日、千葉大学において開催されました、整形外科Cadaver Workshop in Chiba<Knee>~Advanced Course~に参加させて頂きました。当日は、鈴木崇根先生から献体についてのご講義を頂いた後、黙祷と共にWorkshopが始まりました。今回は、前十字靭帯(ACL)再建術の一連の流れから、半月板縫合、更には膝関節周囲の解剖を見学させて頂きました。いずれも大変勉強になる内容ばかりで、特にACL再建術におけるグラフトの作成(移植のために正常腱を採取すること)、再建靭帯の固定が大変興味深い場面でした。
当部ではACL再建術直後のリハビリを担当させて頂いておりますが、以前患者様から「なぜこんなに腫れるのか、痛いのか」と質問され返答に苦慮する場面がありました。今回の見学を通し、膝のどの部位にどういった処置が施されたのかが理解でき、術後の腫脹や疼痛の理由を、より明確な言葉で患者様に説明することができるものと考えます。また、再建靭帯への負荷のかかり方やルーズニング(手術後に移植した腱がゆるむこと)など、実際に目の前で確認することができ、リスク管理の観点からも、術後の膝関節の動かし方を改めて見つめ直すことができました。この経験を活かし、今後も日々精進していきたいと考えます。
今回このような貴重な機会を与えて頂きました、大鳥精司教授、鈴木崇根先生、佐粧先生・赤木先生をはじめとする膝関節外科グループの先生方、そして何より医学の発展のためご献体頂いた白菊会の皆様に心より感謝申し上げます。
AOSpine Advanced Level Specimen Course千葉を開催して 千葉大学整形外科
この度、整形外科治療の世界的な研究組織であるAOSpine Japanと千葉大学整形外科との共催にてAOSpine Advanced Level Specimen Course千葉が開催されました。二年前に引き続き千葉での開催は二回目となります。このプログラムは初日に頚椎~腰椎までの解剖に関する講義、二日目に献体を用いた手術手技実習という二部構成で行われました。両日ともに、日本を代表する脊椎外科の先生方を講師にお招きし、脊椎手術に関連する詳細な解剖知識、さらには手術に関する手技を学び、短期間で脊椎・脊髄に関するプロフェッショナルな知識を習得できる充実した内容となりました。
これまでは海外に渡航しなければ受講できなかったCadaver Workshopが国内、しかも千葉大学医学部で実施されるようになったことは画期的なことであり、鈴木崇根先生を始めとする環境生命医学スタッフ、およびCALの趣旨に賛同して頂いた白菊会の方々には改めて御礼申し上げる次第です。今回取得した知識をもとにご参加いただきました先生方の臨床レベルが一段と向上し、患者さんのさらなる利益に寄与することを祈念しております。
千葉大学医学部附属病院整形外科
2021年6月26日に開催された整形外科Cadaver Workshop in Chiba<Hand&Elbow>〜Basic〜 に参加させていただきました。
当日はまず、骨折や疾患を想定してのアプローチを行い、注意すべき点や手技のコツについて学んでいきました。その後、実際の手術ではみることができない範囲まで解剖を確認していき、靱帯の役割や、関節の動き、筋肉や神経の走行について理解を深めていきました。教科書や事前講義で学習していたものの、人体組織を実際に触れたり動かすことでしかわからないことが数多くあり、気がついたら時間を忘れて実習をしていました。
まだ、臨床経験が乏しい私たちにとって、ご遺体を解剖させていただけたことは大変貴重でありがたい事でした。実習を終えた今は、今回得た知識や技術を実際の患者さんに還元しようと身が引き締まる思いです。
この度このような機会を設けてくださった、ご遺体の先生、千葉白菊会の方々の篤志に心から感謝致します。今後も勉学に励み、整形外科医として少しでも多くの人の役に立てるよう精進して参ります。
千葉大学工学部医工学コース
私は工学部に所属する学生です、手術機器等の開発を通して、医療のさらなる発展を技術的側面からサポートしていくという目標のもと、研究を行っています。
今回開催されたPASMISS 2021 CAL Seminarにて、ご遺体を使用した脊柱手術の手技や、解剖学的学習をさせていただきました。工学者として、普段見ることのできない、医者の先生方の手技や人体の解剖学的構造などを間近で学ぶことができ、とても勉強になりました。
私は、脊柱管内の神経系の束である、硬膜と呼ばれる組織について研究しています。この硬膜管は普段見ることのできない組織ですが、献体してくださった方のおかげで、今回このような学習の機会をいただくことができ、実際の硬膜を見ることができました。解剖学の教科書や資料でしか見ることができず、ただ漠然としていたイメージが、実際の硬膜を見ることでしっかりとしたものになりました。今回学んだことを今後の研究の糧へとし、さらなる医療の発展のために役立てられるよう努力してまいる所存です。
この度は、千葉白菊会へご登録され、献体なされたご本人様、ご遺族様方、このような機会を設けて下さった先生方に厚く御礼申し上げます。献体して下さった方々への礼節を決して忘れず、今後も医療のさらなる発展へと務めてまいります。
千葉大学医学部附属病院呼吸器外科
今回私は初めてクリニカルアナトミーラボに参加させていただきました。呼吸器外科医としては1年目で、今後実臨床での手術の機会が増えていくにあたり、ご遺体での手技修練をさせていただけたことは大変貴重な機会となりました。
血管の結紮・縫合や気管支再建について、普段の手術よりもじっくりと指導をいただきながら体験できたことは、今後の自分の実臨床に必ず生きてくることと思います。今後またこのような機会をいただけることがありましたら、ぜひとも参加させていただけたら幸いです。
このような貴重な機会を与えてくださった千葉白菊会の皆様、CAL関係者の皆様、ご指導してくださった講師の先生、ご協力いただいた看護師の皆様に厚く御礼申し上げます。
千葉大学医学部附属病院歯科・顎・口腔外科
この度、2022年3月10日に行われたプログラム「口腔顎顔面領域の疾患に対する手術手技教育」に参加致しました。 今回は口腔顎顔面領域の解剖や手術の手技について学ばさせていただきました。 献体されたご遺体での学習は大学生以来でしたが、歯科医師として働き出し、実際に患者に治療を行うようになってから改めて今回のようなプログラムに参加してみると、学生時代の解剖ではあまり理解できていなかった部分がはっきり理解でき、とても有意義な時間となりました。
また、書籍や実際の手術現場では理解しにくい解剖や手術でのアプローチについて自分の手で実際に確認できたため、知識を一層深めることができ、今後の自分の治療の大きな手助けとなりました。 鈴木崇根先生をはじめとした指導医の先生の指導があり、御遺体に敬意を払いながら多くの知識を吸収することができました。今後もこのような機会があればまた参加したいです。ここで得た知識や経験を実際の臨床に活かして、よい歯科医師になれればと思っております。
最後に、このようなプログラムへご理解、ご協力いただいている篤志献体団体千葉白菊会、CALの皆様、歯科・顎・口腔外科の先生方に深く感謝申し上げます。
2022年5月7日に開催された整形外科Cadaver Workshop in Chiba<Hand&Elbow>に参加させていただきました。
Workshopでは、事前講義で学習したことを中心に実習致しました。まず実際の手術でのアプローチを確認し、さらに注意すべき神経や血管の走行について解剖
を進めていきました。実際の手術では必要最小限の展開しか行いませんが、今回のWorkshopでは、実際の手術では展開しない広い範囲を展開し、筋肉や靱帯、神
経の走行を学びました。正中神経や上腕動脈など、通常の手術では傷つけることが許されない構造物をこのWorkshopでは積極的に観察することができました。実
際の手術でどこが危ない領域なのか、どういう操作が危険なのか学ぶことが出来、大変貴重な経験となりました。
整形外科医として歩み始めたばかりですが、今回得た知識や技術を患者さんに還元出来るよう、日々精進して参ります。最後になりましたが、献体してくださっ
た方々、ご遺族の方々に深く感謝申し上げます。
千葉大学医学部附属病院整形外科
肩・肘疾患は非常にありふれた疾患で多くの患者様がいるため、その理解は非常に重要です。肩・肘関節は元々動きが大きい関節で、かつ日常生活の中で多様
な動きを必要とするため、その機能がより重視されるという特徴があります。そのため、解剖学的な理解や治療方法(手術方法を含む)が非常に重要です。今回
のワークショップでは、肩・肘関節周囲の基本的な解剖から、骨折の基本的な手術手技(鎖骨骨折や上腕骨頚部骨折、肘頭骨折に対するものを中心に)を習得す
ることを目標に講義と実習を行いました。肩・肘関節の手術を行ったことがない専攻医も多く、また指導する側も更なる解剖知識の習得や手術手技の習熟を得る
ことができ、とても有意義なワークショップになりました。
このような貴重な機会を与えて頂き、千葉大学の関係者の方々、千葉白菊会の皆様に深く御礼を申し上げます。
今回クリニカルアナトミーラボでの千葉手・肘の外科研究会Cadaver Workshop2022に、作業療法士として参加させていただきました。研修1日目は、エコーに
ついての講義・参加者同士でのエコー操作練習を行いました。2日目は、医師によるご遺体でのエコーや、解剖の見学をさせていただきました。
私は日頃、臨床にて手の疾患のリハビリに従事しており、術式・治療を参考書・文献を用いて勉強しておりました。その際、実際に解剖をこの目で確認するこ
とで、更に良いリハビリを患者様に提供出来るのではないかと、常日頃思っておりました。しかし、現状ではコメディカルが解剖の見学をさせていただける機会
は非常に少なく、今回、千葉手・肘の外科研究所で開催されましたCadaver Workshopは、非常に貴重な機会であり、当院の医師に声をかけていただいた際は、
またとない機会と思い、参加を希望させていただきました。実際に解剖の見学をさせていただいたことで、教科書では学ぶことの出来ない、立体的な解剖を学ぶ
ことができ、驚きや発見がたくさんありました。また、手の疾患の発生機序の理解も深まり、たくさんの知見が得られ、またとない貴重な経験となりました。
最後になりましたが、このような貴重な機会を与えてくださった、白菊会の皆様そしてご家族の皆様に、心より感謝申し上げます。今回の研修で得た知識を、
今後の臨床に活かし、一人でも多くの患者様のQOLの向上に貢献できるよう、今後も精進していきたいと思います。本当にありがとうございました。
千葉大学医学部附属病院先端応用外科学
この度は貴重な機会をいただきありがとうございました。今回実際に手を動かしたことで、その後の食道癌手術においても解剖や手技の理解度が上がり、大変
勉強になりました。特にリンパ節については周囲構造物との関係や郭清範囲の認識を深めることができ、実臨床においても術前CTの読影や手術操作の理解にとて
も役立っています。今後も機会があれば是非参加させていただきたいです。
最後になりますが、このような成長の機会を与えていただけたことに対し、ご献体いただいたご遺体の先生に心より感謝申し上げます。今回の学びを大切に、
さらに医師として研鑽を積んでいく所存です。本当にどうもありがとうございました。
千葉大学医学部附属病院呼吸器病態外科学
今回私はClinical Anatomy Lab(CAL)に参加するという貴重な機会を得ることができました。医学生として解剖実習に参加したときのことは今でも鮮明に覚えて
おり、その時の緊張感は6年間の学生生活の中でもとりわけ大きなものでした。当時は人体の構造を目の前にして圧倒され、初めて目にする臓器や筋肉、血管を前
になるべく多くの知識を吸収していくことで手一杯でした。今回医師になって臨床現場で働き、一外科医として研鑽を積む中で改めてこのような学びの場に参加
することができたのは大変ありがたく思いました。医学生であった頃とは異なった心もちで臨むことができ、臨床現場で多くの患者さんの死を経験する中でご献
体しようと決意された方々の気持ちに改めて敬意の念を抱きました。
私が専門としている呼吸器外科という分野では、重要臓器を含む胸部の疾患を専門としており、その手術の際には心臓から出ている大血管の剥離や切離といっ
たような操作をしなければなりません。手術操作により出血を来すと致命的になりうることもあります。今回のCALにおいて手術の手順、手技、また自身では扱
ったことのないような心臓の周りの解剖を確認することができました。教科書やビデオでの学習ではあくまでも二次元でのイメージであり、今回のように立体的
に見て実際に触れることができたのは、今後の診療においてかけがえのない財産になると確信しております。執刀医の立ち位置に立ち、指導医の先生とコミュニ
ケーションをとりながら時間をかけて手術操作をじっくり学ぶことは実際の手術室ではなかなか難しく、CALでの一日はあっという間に過ぎていきました。その
一日は緊張のため疲労感もありましたが、それをはるかに上回る充実感を得ることができました。
また、実際に胸腔内を観察すると人工的に作られた肺モデルとは異なり、脂肪や結合組織、癒着などご献体の方が生前にさまざまな経験をし、生きていた証を
感じることができました。改めてこのような機会を頂いたことに感謝の念を抱くと共に、今後に必ず生かしていこうという決意が生まれました。
最後になりますが、ご献体くださった方々、そしてその意志を尊重されたご遺族の方々に心から感謝申し上げます。
千葉大学医学部附属病院脳神経外科
私は2018年に脳神経外科に入局して以来、毎年CALに参加させていただいております。頭蓋底手術を専門とするべく研鑽を積ませていただいている身ですが、
CALでの学習の場がなければ、解剖知識や手術技術は身についていなかったと感じています。教科書や論文で知識を得ようと日々学習していますが、特に解剖に
関しては実際に見て触れることができるCALを超える学習方法はありません。参加させていただく度に、毎回新しい発見があり、その刺激が更なる手術技術の向
上へのモチベーションとなっています。御献体頂いた故人の方々、そしてその御遺族の方々に、まずは心より感謝の意を伝えさせていただければと存じます。
ある日、CALコースに参加させていただいた数日後の手術が終わったとき、指導医にCALの後から術中手技が安定したと褒められたことがありました。2日間と
いう短い時間ですが、CALが確実に手術の向上に繋がっていると実感できた瞬間であり、手術室で心の中でCALの場をご提供いただいた全ての方々にお礼をさせ
ていただいたことを、今でも覚えています。
一方で、CALの場を維持していくことは決して容易ではないことを痛感しています。医療に貢献するために大切な御身体を御献体くださる故人の方々、御遺族の
方々、白菊会の皆様の奉仕の精神なくしては、CALは存続し得ません。改めて、心より深く感謝申し上げます。皆様から学ばせていただき、身につけた知識と技
術をもって、手術を含めた医療を通して社会に貢献できるよう精進して参ります。今後とも、お力添えをいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。